『池上彰と考える、仏教って何ですか?』の第三章(最終章)では「仏教で人は救われるのか?」についてのべています。

池上さんは、ご自身についてはつぎのようにのべています。

ダライ・ラマ法王との出会いによって、仏教の説く教えこそ、生きていく上での道しるべ、あるいは灯明として活かしていけそうだと確信できるようになりました。私は結局、仏教徒なのかなと思えるようになったのです。

ダライ・ラマ法王との出会いは大きかったようです。


仏教と科学との関係についてはつぎのようにのべています。

仏教では創造主といった存在を想定していません。すべての現象は原因と結果の連なりである因果で成り立っています。物事には必ず原因があって結果が生じます。実に科学的な態度です。(中略)

ダライ・ラマ法王も高名な科学者との対話を頻繁に行なっています。仏教と最新の科学理論とは矛盾しないため、きちんと議論がかみ合うのです。

この点は、一神教とはかなりちがいます。


仏教をいかに活かすかについてはつぎのようにのべています。

法王がおっしゃるように、仏教が追求してきた人間の心の機能やトレーニングは、信仰の有無にかかわらず教養として役に立ちます。世の中の一人ひとりが社会において経験を積んだ、何らかのプロであるように、仏教の僧侶は人間の心のはたらきと制御法に向き合い続けてきたプロなのです。逆境を乗り越えるために、その技術を活かさない手はありません。

これからの時代は、物質よりも、心の機能を知ることとそのトレーニングの方が重要になるでしょう。


死についてはつぎのようにかたっています。

私はジャーナリストとしてたくさんの死を見てきたからです。NHK記者として、人が大勢亡くなった現場に駆けつけるのが仕事でした。特に警視庁を担当していた時代には、あらゆる亡くなり方をした遺体を見ました。

池上さんは普通の人がもっていない体験をもっています。

ダライ・ラマ法王はつぎのようにのべました。

死とは、ただ衣服を着がえるようなものなのです。つまり、私たちの肉体は古くなっていくので、古い身体を捨てて新しい身体をもらうわけです。

前提になっているのは、輪廻転生のかんがえ方です。


戒名について、つぎのようにのべています。

戒名とは本来、戒律を守る証として、仏門に入った者に授けられる名前です。決して死者に付けられる名前などではありません。(中略)

よく葬式仏教への非難とセットで、一文字 X 十万円などという戒名料が話題にのぼりますが、本来、戒名に値段などはありません。お寺への感謝の気持ちとしてお布施を贈ればよいのでしょうが、気持ちを金額に換算する相場はありません。(中略)

生きているうちに戒名を考えてみるのは、よりよく生き、悔いを残さず、よりよく死ぬためのレッスンと言えるでしょう。

これは、わたしたち読者への提案です。生きているあいだに戒名についてかんがえることをきっかけにして、生き方や死に方についてかんがえてみようということです。

* 

最後につぎのようにのべています。

自分のことをよく知り、自分にとって何が大切なのかを知ってこそ、他人や他国の人々が大切にしているものを理解することができるのではないでしょうか。


本書の特色は、いわゆる宗教者や仏教の専門家ではなく、国際ジャーナリストがグローバルな視点から仏教について書いたというところにあります。

今日、グローバル化がいちじるしく進行し、わたしたち一人一人の生活や人生も、世界の情勢と切っても切れない関係になってきました。一人一人の生き方は世界のうごきと連動しているのです。このような、あたらしいグローバル社会において、あらためて仏教をとらえなおすことはとても重要なことだとおもいます。本書は、そのための入門書として有用です。



▼ 文献
池上彰著『池上彰と考える、仏教って何ですか?』飛鳥新社、2014年10月24日


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