『池上彰の宗教がわかれば世界が見える』の第8章(最終章)では、池上彰さんと解剖学者の養老孟司さんとが対談していて、仏教と一神教との違いなどについて解説しています。

池上 キリスト教やイスラム教では、死んだら「最後の審判」があり、天国と地獄に振り分けられる、という死生観ですね。

養老 (中略)生きている時の行いが善だったか悪だったか決められるっていうからには、その人の一生を通した総体としての「自分」みたいなものが前提になっている。それが一神教の文化です。

でも仏教は「無我」というように、「私なんて無い」という立場です。人間は日々変化していき、今ある姿はかりそめのものに過ぎない。されにいえば、「生きている」ということだってかりそめでしょう。

その世界に一神教みたいな自己を入れても、折り合うわけがない。これは、いちばん根本的な違いじゃないかと思います。

(中略)

養老 一神教は、都市の宗教です。自然から切り離され、人間しかいない人工世界ですから、死生観だって人間中心主義になる。日本は世界から見れば「田舎」に属していて、一神教が普及しなかった。

このように、仏教と一神教とは根本的に違うということがのべられています。


また、一神教に関連して、宗教と科学の住み分けについてのべています。

養老 西洋の場合は、宗教と科学は対立するというより、表裏一体でしょうね。(中略)

池上 要するに、それぞれが住み分けをするという形での妥協ですね。(中略)

養老 デカルトが典型ですね。人間についても心身二元論になって、心のほうは宗教の領域、身体のほうは科学の領域と切り分けるようになった。


デカルトについては、池上さんはつぎのように説明しています。

有名なのは、「我思う、ゆえに我あり」という言葉です。知覚される全てを疑っても、その疑っている精神が存在することは疑いようがないということを起点として、デカルトは新しい哲学の方法を述べました。それが理性によって真理を探究するという近代哲学の出発点となり、身体を含めて世界を機械とみなす世界観の確立ともなりました。この世界観、身体観の上で、ヨーロッパの近代科学は展開したのです。


そして、文明の衝突についてのべています。

池上 世界全体をみると、キリスト教とイスラム教の対立といった、「文明の衝突」が言われます。再び宗教の時代に入ってきているのでしょうか。

養老 一神教同士はぶつかるようにできているんですよ。十字軍はまさにそうだし、ヨーロッパの中でもカトリックとプロテスタントの間で三十年戦争が起きています。

今日、グローバル化がすすんできて、出身のことなる人々が世界各地で混在するようになり、あらたな衝突もおこりはじめたと言えるのではないでしょうか。

最近の世界のニュースを理解するためには、世界の宗教、特に一神教に関する基本的な認識がやはり必要でしょう。一神教について知るためには、仏教や神道との相違を知ることがひとつの重要な方法になります。そのために、池上さんらの解説はとても参考になるとおもいます。


▼ 文献 
池上彰著『池上彰の宗教がわかれば世界が見える』(文春新書)文藝春秋、2011年7月20日


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