梅棹忠夫著『知的生産の技術』の第8章では「手紙」、第9章では「日記と記録」についてのべています。

手紙かきも知的生産の一種であるといえば、やや拡張解釈にすぎるであろうか。しかし、すくなくともそれが、知的生産のための重要な補助手段であることはまちがいない。文通によるさまざまな情報の交換が、わたしたちの知的活動をおおきくささえていることは、うたがいをいれないからである。

梅棹さんが、情報の観点から手紙をとらえていたことに注目しなければなりません。

現代では、電子メールがあり、また、ツイッターやフェイスブックなどが開発されたために、「情報の交換」は簡単に誰でもできるようになりました。また、それが知的活動をささえていることはいうまでもないでしょう。

『知的生産の技術』が出版されたのは1967年、その後の情報技術の進歩は本当にいちじるしいものでした。本書でとりあげられたタイプライター、コピー、住所録、模範例文集などの課題は、技術革新によってすべて解決されました。

しかし、逆に情報量が多くなりすぎて、処理がおいつかずにこまる場合がでてきました。今後は、人がおこなう情報処理能力の開発が必要でしょう。


つぎに日記について説明しています。

日記というものは、時間を異にした「自分」という「他人」との文通である、とかんがえておいたほうがよい。

日記というものは、自分自身にとって、重要な史料なのである。あとからよみかえしてみて、感傷にふけるだけではなく、あのときはどうであったかと、事実をたしかめるためにみる、という効能がたいへんおおきいのである。(略)日記は、自分自身のための業務報告なのである。

日記というのは、経験の記録が、日づけ順に記載されているというだけのことである。

世の中には、メモ魔と称されるひとがいる。ポケットに手帳をもっていて、それに、なんでもかでも、かきつけてしまうのである。

わたしも、メモ魔ではないけれど、ものごとをその場で記録することが、あまり苦にならないようになっている。

そして、梅棹さんは、京大型カードに日記や記録を書きはじめます。そしてカードが蓄積されていけば、それは「個人文書館」になるといいます。

わたしがいっているのは、知的生産にたずさわろうとするものは、わかいうちから、自家用文書館の建設を心がけるべきである、ということなのである。

現代では、この目的のためにブログやツイッター・フェイスブックなどがつかえます。これらは、文章だけでなく写真や動画もアップできます。リンクもはれます。これらに、記録を日々つけていけば、自動的に「個人文書館」は構築され、検索もできるようになります。したがって、紙のカードはいらなくなりました。

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このように、かつての道具はもはやふるくなりましたが、「情報交換」「日記」「記録」「個人文書館」に関する梅棹さんのかんがえ方と「技術」(やり方)は今でも生きているとおもいます。これらの技術(やり方)を現代の道具をつかって実践すればよいのです。

このような意味で、梅棹さんは時代を先取りしていて、時代が、ようやく梅棹さんにおいついたと見るべきでしょう。

『知的生産の技術』を読んでいると、当時存在した道具をつかって「知的生産」を実践しようと苦労し工夫してきた道のりがよくわかります。梅棹さんは意識して過程を書いていますこのような「知的生産の技術」の発展の歴史を知ることは、今後の情報化の発展を予想するための参考になるとおもいます