梅棹忠夫著『知的生産の技術』第6章「読書」では、知的な読書は3段階をふんでおこなうとよいことがのべられています。

まず、「一気によむ」ということから説明がはじまります。

ごく一般論としていえば、一気によんだほうが理解という点では確実さがたかい。すこしずつ、こつこつとよんだ本は、しばしばまるで内容の理解ができていないことがある。

本をかくということは、かき手の立場からいうと、やはり、ひとつの世界を構築するという仕事である。そして、本をよむということは、その、著者によって構築された世界のなかに、自分自身を没入させるという行為である。それができなければ、本を理解したことにはならない。

すこしずつ、こつこつよんだのでは、構築されたひとつの世界が、鮮明な像をむすばないのである。本は、一気によんだほうがよい。

「こつこつよんだのでは、構築されたひとつの世界が、鮮明な像をむすばない」というところがいいです。

わかりやすくいうならば、読書ではまず第一に、本の全体構造をつかまなければならないということだとおもいます。そのためには短時間で一気に読んだ方がよいのです。細部をとらえるのは構造をつかんでからでもできます。具体的には、目次をよく見ます。そして、各章、大見出し、小見出しの配置を視覚的空間的にとらえるようにします。それぞれの分量にも注目します。


つぎに、「本は二どよむ」ということです。

二どめのよみかたは、きわめて能率的である。短時間で、しかもだいじのところだけはしっかりおさえる、ということになる。

2度目の読み方は、1度目とはがらりと変えます。今度は、重要な箇所のみを重点的におさえるのです。

具体的には、その重要な箇所が、本の全体構造のなかのどこにあるのか、構造のなかに位置づけてとらえようにします。構造的な空間のなかのどこに配置されているのかをイメージするようにします。

そのためは、一度目の「一気によむ」で、本の構造をあらかじめとらえておくことが必要です。 

(1)全体構造を見て、(2)重要な部分をおさえると、今まで以上に全体がよく見えてくるものです


そして、最後に「創造的読書」についてです。

ところでだいじなことは、読書ノートの内容である。わたしの場合をいうと、(中略)わたしにとって「おもしろい」ことがらだけであって、著者にとって「だいじな」ところは、いっさいかかない。

「わたしの文脈」のほうは、シリメツレツであって、しかも、瞬間的なひらめきである。これは、すかさずキャッチして、しっかり定着しておかなければならない。

こういう読書ノートは、まえにかいた「発見の手帳」の、まさに延長上に位置するものである。あるいは、それ自体一種の「発見の手帳」であって、読書は、「発見」のための触媒作用であったということができる。

これは第三の読書であり、「発見」の読書あるいは「創造的読書」です。

ただし、電子書籍やPDFが発明された現代では、それらのハイライトやメモ機能をつかって、発見やひらめきを記録しておけばよいです。読書ノートやカードを別につくる必要はなくなりました。

本が、電子書籍やPDFになってきて、必要なときにいつでも簡単にとりだして読めるようになり、本当に便利になりました。ハイライトやメモの検索や一覧もでき、たとえばブログや報告書その他の文章を書くときに参照したり引用したりすることが簡単にできます。

このように、電子書籍やPDFが発明されて読書の仕方も変わってきました。
 
しかし、「知的生産の技術」の3段階の読書法は普遍的な原理として今後とも生きのこっていくとおもいます。つまり、知的読書の3段階は、創造の3段階としてもつかえるとおもうのです。つまりつぎの3段階には普遍性があるということです。

(1)全体構造をつかむ →(2)重点をおさえる →(3)創造