川喜田二郎著『日本文化探検』は、日本文化を中核にして民族と世界について考察し、人々の創造性を開発することの必要性について論じています。

目次はつぎのとおりです。

北地の日本人
南海の日本人
生活様式の改造
山と谷の生態学
神仏混淆
「コドモ」と「オトナ」
パーティー学の提唱 - 探検隊の教訓から -
カンのよい国民
カーストの起原 - 清潔感をめぐる日本文化の座標 -
労働と人間形成
慣習の国
民族解散
文化の生態学 - ひとつの進化論の試み -
日本文化論 - 丸山真男氏の所論にふれて -
世界のなかの日本
民族文化と世界文化


今回は、方法論の観点から重要な最終章「民族文化と世界文化」についてとりあげてみたいとおもいます。要点を引用してみます。

「地球が小さくなり、狭くなり、一つになりつつある」というとき、それは世界的な一個の文化が形づくられつつあることを意味する。これを「世界文化」と呼んでおこう。

現代が有史以来はじめて世界文化の形成を許しはじめたことを、深く信ずる。けれども、そのゆえをもって、地方的特殊的な文化は否定されていくものだろうか。後者を以下「民族文化」と呼んでおこう。

世界文化と民族文化とは、互いに他を強めあい、自らを成り立たせていかねばならないものである。

民族文化の多様な個性のうえに、じつは世界文化の健やかな創造も強化されるというものである。

今までの民族文化は三つの部分に分かれる。
第一は、機能を失い、あるいは有害ですらあるために「消滅する部分」。
第二は、すくなくとも有害でなく、あるいはその民族に関するかぎり有益であるため「残存する部分」。
第三は、世界文化へと「上昇発展する部分」である。
日本民族について例をあげれば、徳川封建時代の士農工商の階級制は消滅した部分。
日本人の米食習慣とか家族形態とかは、変容しながらではあるが残存した部分。
華道とか柔道とかは上昇する部分である。

創造性、それは低開発諸国民にとっても援助する側にとっても、離陸(発展)のための手段であるのみならず、また福祉目標のなかにも入るべきものであろう。

低開発の新興独立諸国は、多くの留学生を欧米や日本に送っている。これら留学生諸君の勉学態度には、勉学するとはすなわち進んだものを受容し習得することであるとする「受けいれ姿勢」が多く、「創りだす姿勢」が欠けている。あたかもそれに応ずるかのように、母国で始まった近代的学校教育でも、日本の比ですらないほどに棒暗記主義のような受けいれ姿勢のやり方ばかりがはびこるのである。

自国の文化に対しては、これを「過去」を見る眼でしか捉えていない。そしていたずらにその過去なる伝統に執着するか、あるいはまた過去の否定にのみ進歩があると見ている。すでにつくられてきた伝統のなかに、いかに未来を創るさいに活用できる社会制度や精神や風習があるかを読みとろうとしない。

民族文化の重要性とは、単に地方的環境に適した特殊性の「残存」という点だけにあるのではないということ。これに加えるに、「上昇」を通じて世界文化の創造に対して、豊かな泉のひとつを加えるということ。


今日、グローバル化が進行し、人類は「世界文化」を構築しはじめたということは誰もがみとめることでしょう。

しかし、その「世界文化」がひろがる一方で、民族紛争が世界各地で多発してしまっているというのが現在の状況です。ニュースを見ていると悲惨な衝突があとをたちません。

「世界文化」と「民族文化」の矛盾を解消し、両者を両立させることはできるのでしょうか。

川喜田は、創造によってのみそれが可能だとのべています。

そのためには、まず、先進国の人々は、先進的な近代技術・近代文明を、開発途上国の人々に一方的におしつけるのはやめて、そこでくらす人びとの文化の独自性を尊重し、民族文化の多様性をみとめなければなりません

その一方で、その地域でくらす人びとは、自分たちの独自の伝統文化をまもるだけではなく、今日の時代の潮流に呼応して、あたらしい民族文化あるいは地域文化を積極的につくっていく、創造していく姿勢をもたなければなりません文化は、伝統に根差しつつも創造していくものととらえなおすのです。


川喜田は、民族文化を色こくのこす開発途上国における問題点の一例として、近代的学校教育についてとりあげ、そこでは、棒暗記の「受けいれ姿勢」の勉強ばかりになってしまっていることを指摘しています。

創造というと抽象的でわかりにくいかもしれませんが、その基礎は、人間がおこなう情報処理(インプット→プロセシング→アウトプット)にほかならず、創造するとは、よくできたアウトプットをしていくことです。

つまり、棒暗記の「受けいれ姿勢」とは、インプットばかりをやっていて、プロセシングとアウトプットがないということです。

わたしも開発途上国で長年仕事をしてきて、近年ふえてきた近代的な学校において、生徒・学生たちが棒暗記(情報のインプット)ばかりして点数をかせぐことに集中していることはよく知っています。しかしこれは、日本でも似たようなことがいえます。

そこで、情報処理の仕組みをよく教育し、〔インプット→プロセシング→アウトプット〕のすべてにわたるバランスのよい訓練をすることが必要です。そもそも、情報処理はインプットだけではおわらず、アウトプットまでやって完結するのですから。


「世界文化」と「民族文化」の問題と、情報処理とが何の関係があるのだろうかとおもう人がいるかもしれませんが、民族文化あるいは地域文化の創造をとおして世界文化にも貢献するという文脈において、情報処理能力の開発がどうじても必要だということになるのです。

「世界文化」と「民族文化」は簡単には解決できない人類にとっての歴史的問題です。このような歴史的観点からも情報処理をとらえなおすことには大きな意味があり、情報処理能力の開発が人類の第一級の課題になっていることを読みとることはとても重要なことです。


▼ 文献
川喜田二郎著『日本文化探検』講談社、1973年3月15日