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池内恵著『イスラーム国の衝撃』は、報道が連日つづいていいる「イスラーム国」に関する一般むけ解説書です。

目次はつぎの通りです。

1 イスラーム国の衝撃
2 イスラーム国の来歴
3 甦るイラクのアルカーイダ
4 「アラブの春」で開かれた戦線
5 イラクとシリアに現れた聖域 ──「国家」への道
6 ジハード戦士の結集
7 思想とシンボル ── メディア戦略
8 中東秩序の行方

そもそも中東の混乱の要因には、第一次世界大戦後の英仏による、「委任統治」という名の事実上の植民地支配がありました。これにより中東は分断され、イスラーム原理主義は支持をえました。

「イスラーム国」はアル=カーイダに起源があります。

9・11事件後、米国による「対テロ戦争」によって、アル=カーイダは一度は打撃をうけましたが、ネットワーク型の組織原理でつながる「アル=カーイダ関連組織」となり復活しました。

アル=カーイダが復活した最大の要因は2003年のイラク戦争でした。イラクの混乱により、イラクは、アフガニスタンからおわれたジハード戦士たちの行き場となり、そこで台頭したのが「イラクのアル=カーイダ」です。これが大きくなってイラクとシリアの一部を領域支配するようになり、これが、現在の「イスラーム国」になりました。

一方で、2011年以来の「アラブの春」により独裁政権が次々にたおれたことも、国境をこえてジハード戦士があつまり、「イスラーム国」を大きくする要因になりました。

それにくわえて、「グローバル・ジハード運動」がおこり、民族や国家をこえたテロが世界各地でおこりはじめました。これには、ハイテク化した兵器が世界の市場で流通するようになったことがベースにあります。

さらに、「イスラーム国」は、インターネットをつかったたくみなメディア戦略により、世界の注目をあつめることに成功しました。「イスラーム国」は「電脳空間」にも大きく進出したのです。


本書を要約すると以上のようになります。

このような流れのなかで現在の状況をみていると、世界は、今までとはちがう あらたな歴史的段階に入ったとしかおもえません。

中東の問題を、イスラーム世界の問題あるいは欧米の問題と片付けることはもはやできないことはあきらかです。地理的にも歴史的にも、あるいは宗教上もとおい存在であった日本でさえも、意図せずして、紛争に「参加」してしまうことがあることを、わたしたち日本人も知るべきでしょう。わたしたちは世界とつながっているのです。

なお、本書は、説明が若干こみいっています。池上彰著『池上彰が読む「イスラム」世界』とあわせて読むと理解が一層すすむでしょう。
 


▼ 文献
文化的にひとまとまりのある地域をおさえる - 国立民族学博物館の西アジア展示 -
世界の宗教分布を地図上でとらえる -『池上彰の宗教がわかれば世界が見える』(1)-

Mac OS X を、「Mavericks」から最新の「Yosemite」(バージョン10.10.1)にアップグレードしました。

「Yosemite」の最大の特色は、iOSデバイス( iPhone / iPad )と Mac との連携機能です。

iOS デバイスと Mac との連携機能をつかいたくて、かつ、約2年前よりもあたらしい Mac をもっている人は、「Yosemite」にアップグレードする価値があるとおもいます。ただし、iOS が iOS 8 である必要があります(注:ふるい Mac ですと、不具合が生じたり、処理速度がおそくなったりするので注意が必要です)。


「Yosemite」は、iOS 同様に、フラットデザインになり画面の見た目の印象がかわりました。フラットデザインは iOS との連携を視覚的にも強調しています。

「Yosemite」の新機能は、「Handoff」や「電話」、「iCloud Drive」などさまざまです。以下に、注目の機能について要約してみます。

  • Handoff」を使うと、iOS デバイスでの作業をそのまま Mac にひきついだり、Mac から iOS デバイスにひきつぐことが可能です。
  • Mac 同士または iOS デバイス同士でしかできなかった「AirDrop」によるファイル転送が、Mac と iOS デバイス間でもできるようになりました。
  • iPhone の通信回線を使ってインターネットに接続できる「Instant Hotspot」は、Wi-Fi 環境がない場所でも、Macからインターネットに接続できる機能です。
  • iCloudでは、「iCloud Drive」というオンラインストレージが使用できるようになり、Mac の Finder から簡単にアクセスできるようになり、あたらしいフォルダーもつくれます。あらゆる種類のファイルをすべて iCloud の中に安全に保存でき、保存したものには、iPhone、iPad、iPod touch、Mac、Windowsパソコンからいつでもアクセスできます。iCloud では 5GB のストレージを無料で利用できます(それ以上のストレージは有料です)。
  • Mail Drop」は、メールアプリで大容量の添付ファイルを送信できる機能です。大きなファイルのやりとりが多いMacユーザーにはつかってほしい機能です。
  • 新しい「Safari」はより高速で動きもなめらか、iOSデバイスでひらいているページを Mac でも参照できるようになりました。
  • iPhone にかかってきた電話を Mac で受けたり、Mac から iPhone を通して電話することができます。Mac での作業中にバッグの中に iPhone を入れたままにしておいても大丈夫です。また、SMS/EMS を Mac のメッセージアプリでやりとりできる機能も追加されました。


ひとことでいえば、「Yosemite」と iOS 8 は、クラウド時代の本格的な幕開けをもたらすことになるでしょう。これからの時代は、Mac や iPhone や iPad は端末として機能することになるので、これらのハードウェアにはとらわれすぎずに、あくまでも、クラウドのシステムをつかっていくという立場にたった方がよいでしょう。

「Yosemite」にアップグレードして、あたらしいクラウドあるいは連携機能をためしてみる価値は十分にあるとおもいます。


Apple - OS X Yosemite - 概要 >>


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佐々木閑著『NHK100分de名著 ブッダ 真理のことば』は、仏教の開祖であるブッダの言葉をみじかい詩の形にして423句あつめた『ダンマパダ』の入門書です。『ダンマパダ』は、数ある仏教の経典の中でも、とくにふるい部類に属するものです。

まず、仏教の歴史の概略についてです。
 

ブッダは今から二千五百年くらい前にインドの北方、現在のネパール領内で生まれ、その後亡くなるまで、北インドの狭い範囲だけで活動しました。ブッダの没後、その教えはまず西のほうに伝わり、海岸に到達すると海伝いに南下してスリランカに入り、さらに海沿いに北上して東南アジアのタイ、ミャンマーなどに根づきました。これがいわゆる「小乗仏教」と呼ばれる仏教で、ブッダの教えをかなり正確に残した教派です。(中略)ただし「小乗仏教」というのは、敵対する大乗仏教側からの敵意のこもった蔑称ですから正当な呼び名ではありません。現在、当地の人びとは自分たちの仏教を「上座部仏教」と呼んでいます。

一方、ブッダ入滅後の仏教は南だけでなく、陸伝いに北のほうへも伝わったのですが、シルクロードがまだ開通していなかったため、中国まで行き着くことはできず、長く国境付近で足踏みする格好になりました。そうこうするうちに、紀元前後頃にインドの仏教世界で、内容的にかなり変容した第二派として「大乗仏教」が起こります。(中略)中国へはオリジナルの仏教と大乗仏教が並んで入っていったわけです。(中略)日本は、その中国から仏教を輸入したため大乗仏教一色の国になったのです。


つまり仏教は、歴史的地理的にみると、北インドから、「釈迦の仏教」→「上座部仏教」という南方への流れと、「釈迦の仏教」→「大乗仏教」という北方への流れがあり、日本には「大乗仏教」がつたわったということです。また「釈迦の仏教」以前には、バラモン教がありました。

「釈迦の仏教」についてはつぎのようにのべています。
 

ブッダが創始した仏教、すなわち「釈迦の仏教」の最大の特徴は、外の力に頼らず、あくまでも自分の力で道を切り開くという点です。

この世の出来事はすべて、原因と結果の峻厳な因果関係にもとづいて動きます。自分がなしたことの結果は必ず自分に返ってきます。因果関係を無視してどんなことでもしてくれる超越的な絶対者など存在せず、人は自分の行為に対して、一〇〇パーセントその責任を負わねばならないのです。


つまり、「釈迦の仏教」は「自己鍛錬システム」であるということです。

「空」についてはつぎのように解説しています。


自分というものが永遠に存在する絶対的なものではない、ということです。「私」と言っても、実は私という本体はどこにもない。第3章でもお話ししましたように、いろんな要素が集まってできているのが私ですから、そこにある私というものは〝空〟、つまり、からっぽだと。〝空〟というのは、形はあるのだけれども、その中に本質がないという意味です。ですから、そういうことがわかれば、自分というものに執著することによって起こってくる苦しみが消えていくであろうと。そういう教えなのです。 そして、なぜ実体がないのかといえば、それは諸行無常だからです。すべてのものはいつも移り変わって別のものに変わっていくのだから、いつまでも同じ形で残るものは何ひとつない、ということです。

執著とか無明とか、あるいは恨みとか。そういった煩悩が一種のフィルターになって、ものごとを自分中心に作り上げてしまう。それが私の実際の世界だと思い込んでしまう。これがものごとが心によって導かれてしまうということなのですね。ですから、心の持ちようをどうするかによって、われわれの心に苦しみが生まれるか、生まれないか、それが決まってくるということです。


本書の最後には、「世の中の在り方を正しく見るために」と題して、認知脳科学者の藤田一郎さんとの対談が掲載されていて、本書の大きな特色になっています。 
 

世界のものが私たちの体の中に直接飛び込んでくるわけではなく、あくまでも目や耳や鼻や口や、そういう感覚器官から、脳の中に入ってきた情報、つまり電気信号に基づいて、世界の情景を作り直している、ということです。それが私が言っている「作り直す」という意味なのです。


このように、人間の情報処理が世界の情景を「作り直している」という説明は非常に興味ぶかく、注目に値します。






本書は、「釈迦の仏教」→「大乗仏教」という仏教の発展段階、両者の相違をふまえ、「釈迦の仏教」についてわかりやすく解説していて、「釈迦の仏教」が「自己鍛錬システム」であることを理解することができます。また、「因果関係」や「空」についても認識をふかめることができます。

本書は、著者が元科学者であったこともあって、ほかの著者には見られない独特な解説を生みだしており、説明が合理的でわかりやすく、「釈迦の仏教」の入門書としてすぐれています。佐々木閑著『般若心経』とあわせて読んでみるとよいでしょう。
 
 




▼ 参考文献
佐々木閑著『NHK100分de名著 ブッダ 真理のことば』NHK出版、2012年6月22日
NHK「100分de名著」ブックス ブッダ 真理のことば NHK「100分de名著」ブックス


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「釈迦の仏教」との違いに注目して『般若心経』をよむ - 佐々木閑著 『般若心経』-
仏教を歴史的にとらえる -『池上彰と考える、仏教って何ですか?』(1)-
グローバルな視点にたって仏教をとらえなおす -『池上彰と考える、仏教って何ですか?』(2)-
自分を知り、他人や他国を理解する -『池上彰と考える、仏教って何ですか?』(3)-





佐々木閑著『NHK 100分 de 名著 般若心経』は、「日本で一番人気のお経」について、「釈迦の仏教」と「大乗仏教」の違いに注目して解説しています。

本書によると、『般若心経』は、釈迦自身のおしえとは違う別の道をおしえているのだそうです。著者は、「『般若心経』のイメージをひっくり返してしまうかもしれません。みなさんが抱いている理解と、私はたぶん違うことを言うと思います」と冒頭でのべています。
 

『般若心経』が述べていることは必ずしも釈迦の考えではありません。それはむしろ、「釈迦の時代の教えを否定することによって、釈迦を超えようとしている経典」なのです。

釈迦の死から約五百年たった紀元前後、つまり今から二千年ほど前のインドで、新興の宗派である「大乗仏教」が興りました。『般若心経』は、その大乗仏教運動の中で作られた数多くの「般若経」をもとにできあがったものです。

仏教に限らずどんな世界においても、後発のグループは先行するグループを超えるために、それまでの常識を覆すような新機軸を打ち出して自分たちの場所を獲得していきます。


 
 
「空」についてはつぎのように解説しています。


この世はそのような理屈を超えた、もっと別の超越的な法則によって動いている。これが「空」である。

基本要素(現代でいえば素粒子)も非実在であり、錯覚であると主張したのが大乗仏教の「空」なのです。


「空」とは、「釈迦の仏教」の理屈をこえた超越的な法則のことだというわけです。
 



救済についてはつぎのように解説しています。
 

「釈迦の仏教」では、まず自己救済の「自利」があり、それが回り回って結果的に他者の救済、つまり「利他」に転じるという「自利→利他」の流れを基本構造として持っています。一方、大乗仏教では、最初から「利他」をよしとして他人の救済に目を向けます。


大乗仏教では、他者をすくった結果として最終的に自分がすくわれるとかんがえるのだそうです。
 



本書は、「釈迦の仏教」から「大乗仏教」へと発展した仏教の歴史を踏まえ、また、「釈迦の仏教」と「大乗仏教」との相違に着目して「般若心経」について説明しているところに特色があります。『般若心経』の全訳とその解説については本書にくわしく記載されています。このように、歴史あるいは発展の段階を踏まえて、「般若心経」あるいは仏教について理解をふかめていくことには大きな意味があるとおもいます。



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▼ 参考文献


『池上彰と考える、仏教って何ですか?』の第三章(最終章)では「仏教で人は救われるのか?」についてのべています。

池上さんは、ご自身についてはつぎのようにのべています。

ダライ・ラマ法王との出会いによって、仏教の説く教えこそ、生きていく上での道しるべ、あるいは灯明として活かしていけそうだと確信できるようになりました。私は結局、仏教徒なのかなと思えるようになったのです。

ダライ・ラマ法王との出会いは大きかったようです。


仏教と科学との関係についてはつぎのようにのべています。

仏教では創造主といった存在を想定していません。すべての現象は原因と結果の連なりである因果で成り立っています。物事には必ず原因があって結果が生じます。実に科学的な態度です。(中略)

ダライ・ラマ法王も高名な科学者との対話を頻繁に行なっています。仏教と最新の科学理論とは矛盾しないため、きちんと議論がかみ合うのです。

この点は、一神教とはかなりちがいます。


仏教をいかに活かすかについてはつぎのようにのべています。

法王がおっしゃるように、仏教が追求してきた人間の心の機能やトレーニングは、信仰の有無にかかわらず教養として役に立ちます。世の中の一人ひとりが社会において経験を積んだ、何らかのプロであるように、仏教の僧侶は人間の心のはたらきと制御法に向き合い続けてきたプロなのです。逆境を乗り越えるために、その技術を活かさない手はありません。

これからの時代は、物質よりも、心の機能を知ることとそのトレーニングの方が重要になるでしょう。


死についてはつぎのようにかたっています。

私はジャーナリストとしてたくさんの死を見てきたからです。NHK記者として、人が大勢亡くなった現場に駆けつけるのが仕事でした。特に警視庁を担当していた時代には、あらゆる亡くなり方をした遺体を見ました。

池上さんは普通の人がもっていない体験をもっています。

ダライ・ラマ法王はつぎのようにのべました。

死とは、ただ衣服を着がえるようなものなのです。つまり、私たちの肉体は古くなっていくので、古い身体を捨てて新しい身体をもらうわけです。

前提になっているのは、輪廻転生のかんがえ方です。


戒名について、つぎのようにのべています。

戒名とは本来、戒律を守る証として、仏門に入った者に授けられる名前です。決して死者に付けられる名前などではありません。(中略)

よく葬式仏教への非難とセットで、一文字 X 十万円などという戒名料が話題にのぼりますが、本来、戒名に値段などはありません。お寺への感謝の気持ちとしてお布施を贈ればよいのでしょうが、気持ちを金額に換算する相場はありません。(中略)

生きているうちに戒名を考えてみるのは、よりよく生き、悔いを残さず、よりよく死ぬためのレッスンと言えるでしょう。

これは、わたしたち読者への提案です。生きているあいだに戒名についてかんがえることをきっかけにして、生き方や死に方についてかんがえてみようということです。

* 

最後につぎのようにのべています。

自分のことをよく知り、自分にとって何が大切なのかを知ってこそ、他人や他国の人々が大切にしているものを理解することができるのではないでしょうか。


本書の特色は、いわゆる宗教者や仏教の専門家ではなく、国際ジャーナリストがグローバルな視点から仏教について書いたというところにあります。

今日、グローバル化がいちじるしく進行し、わたしたち一人一人の生活や人生も、世界の情勢と切っても切れない関係になってきました。一人一人の生き方は世界のうごきと連動しているのです。このような、あたらしいグローバル社会において、あらためて仏教をとらえなおすことはとても重要なことだとおもいます。本書は、そのための入門書として有用です。



▼ 文献
池上彰著『池上彰と考える、仏教って何ですか?』飛鳥新社、2014年10月24日


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『池上彰と考える、仏教って何ですか?』の第二章「仏教発祥の地インドへ」では、チベット仏教の最高指導者であるダライ・ラマ法王と池上さんとの対談をよむことができます。東日本大震災、原発・エネルギー問題、仏教の心理学、チベット問題などについてかたられていて、法王とのこの対談は本書の価値をとても高めています。

チベットは、現在は、インドに亡命政権をおいています。

一九五九年三月、ダライ・ラマ法王は二十四歳のとき、中国の軍事的な圧力にさらされていたチベットを後にし、インドに亡命しました。


法王は、東日本大震災のあと、4月には日本を訪問され、特別慰霊の法要をし、11月には被災地を慰問されました。

多くの困難や苦しみに直面したときに、大きなちがいをもたらすものは、私たちのもののかんがえ方にあることをのべています。

普段から物質的な発展だけを追い求め、外面的な幸せを得ることだけを考えていたとしたら、内面的なことをあまり考えずに過ごしていたとしたら、このような惨事が起きたとき、すべての望みを失ってしまいます。

しかし、日頃からどのようなものの考え方をするべきかについて考え、心を訓練していれば、逆境に立たされた場合でも、心の中では希望や勇気を失わずにいることができるのです。

日本人がこれまで、物質的な価値をおいもとめすぎていたこを指摘し、震災は、精神的な価値に気づくチャンスだと強調しています。
 

原発事故、エネルギー問題、復興については、つぎのようにのべています。

私たちは科学技術を必要としていますし、科学技術を向上させていくことも必要です。 

しかし、同時に、津波の予知などには限界があるということも認識しなければなりません。巨大な自然災害が起きたときは、科学技術に助けを求めても、時には私たち人間の能力をはるかに超えていることもあるのです。

わたしたちは、今日、科学技術にも限界があることを認識しなければならなくなりました。


チベット問題についてはつぎのようにのべています。

私たちチベット人のことについて少しお話ししましょうか。私たちは祖国を失いました。私は十六歳のときに自由を失い、二十五歳のときに祖国を失ったのです。

しかし、希望と決意を失ったことは一度もありません。自由と祖国を失った時からすでに五十年、六十年の月日が経ちましたが、今もなお、私は完全な情熱と自信を持ってこの問題に立ち向かっています。

法王は、「中道のアプローチ」という、チベット人の自治が実現できれば中国からの独立はもとめないという妥協案を提出しています。わたしたちは、アジアにおける国際紛争についてももっと理解しなければなりません。

* 

心の精神世界についてはつぎのようにのべています。

仏教は、私たち人間が持っている様々な感情について、つまり、心という精神世界について、大変深い考察と探究をしています。私たちの心とはどういうものなのか、感情がどのような働きをしているのかを正しく理解することは、問題や困難に直面したとき、自分の破壊的な感情を克服するために大変役に立つのです。

自分の心がどのように機能しているのか、そのシステムを正しく知ることが重要であると強調しています。


対談をおえて、池上さんはつぎのようにまとめています。

ダライ・ラマ法王のような卓越した指導者を持たない私たち日本人には、心のよりどころが希薄です。法王の提案する、よく生きるための一般教養としての仏教をヒントに、不安と恐れを克服する術を日本人なりに考えていく必要があるのでしょう。


法王と池上さんのように、グローバルな視点にたって、地球上のほかの宗教とも比較しながら仏教をとらえなおしていくことは、現代の複雑な世界情勢のなかで、自分なりの人生を展開していく方法を見つけるためにも必要なことだとおもいます。特に、心の機能やシステムについて理解をふかめていくことは重要でしょう。


▼ 文献
池上彰著『池上彰と考える、仏教って何ですか?』飛鳥新社、2014年10月24日


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仏教を歴史的にとらえる -『池上彰と考える、仏教って何ですか?』(1)-

『池上彰と考える、仏教って何ですか?』は、仏教の誕生、日本への伝来から、葬式や戒名の意味、新興宗教まで、仏教の基礎知識についてとてもわかりやすく解説しています。

そもそも仏教は、古代インドにあったバラモン教の中から生まれてきました。

仏教は、古代インドのバラモン教の伝統の中で生まれ育ったブッダが、バラモン教を超える宗教として生み出したものなのです。 


ブッダの教えの要点はつぎのとおりです。

「諸行無常」「諸法無我」「一切皆苦」。

この三つを、ほかの宗教にはない仏教の象徴的な教えという意味で三法印と呼びます。これに「涅槃寂静」を加えて四法印と呼ぶこともあります。

「諸行無常」という真理こそ、ブッダの基本的な教えのひとつです。諸行(あらゆる物事)は無常(同じままとどまることはない)であるということです。

諸行無常とともに仏教の基礎となるのが「諸法無我」。すなわち、私というものに実体はないということです。

実にこの世は、思うにまかせない辛いこと、苦しいことだらけです。この考え方を「一切皆苦」(すべては苦である)といいます。

苦しみを完全に抜け出した状態を「涅槃寂静」と呼びます。つまり、煩悩の炎を吹き消せば、私たちは心の安らぎを得ることができ、涅槃、すなわち悟りに至ることができるのです。ブッダは、人は死んでも何か別の生物に生まれ変わるという輪廻転生の考え方をベースに、涅槃寂静を目指す教えを説きました。


 ブッダの死後、大乗仏教が生まれました。

ブッダの時代のルールをそのまま守るべきだという保守派(上座部)と時代に合わせてルールを変えていくべきだという改革派(大衆部)の二つに分裂していきます。上座部はスリランカに伝わり上座部仏教となり、大衆部は大乗仏教へと変化していきました。


日本には、中国のフィルターを通して大乗仏教がつたわりました。

聖徳太子は中央集権国家をつくるため、当時最新の外来宗教であった仏教を基盤にしようと考えたのです。聖徳太子は現在の大阪市にある四天王寺をはじめとする寺院を建立し、日本仏教の礎を築きました。


インドでは、大乗仏教が密教へ発展しました。

インドで生まれた仏教が、より多くの人に救いをもたらす大乗仏教へと発展したのと前後して、仏教に刺激を受けたバラモン教がインド土着の信仰を吸収してヒンドゥー教へと姿を変えて勢力を伸ばしました。  

すると仏教の側も、庶民に人気の高いヒンドゥー教の儀式や信仰を取り入れるようになりました。その結果として発展したのが密教です。


密教は、空海によって日本につたえられました。 日本では、その後、仏教は独自の発展をしていくことになります。

最澄は八〇六年に比叡山延暦寺で天台宗を開き、空海は八一六年、高野山金剛峯寺で真言宗を開きました。


本書では、さらに、「鎌倉仏教」、「葬儀仏教」、「檀家制度」、「新興宗教」などについて説明しています。


このように、本書は、仏教の概要を歴史的に解説しています。大ざっぱに見るとつぎの通りです。

ブッダの教え → 大乗仏教 → 密教


インドでは、つぎの順序があります。
 
バラモン教 → 仏教 → ヒンドゥー教


これは、つぎの一神教の順序とあわせておぼえておくとよいでしょう。
 
ユダヤ教 → キリスト教 → イスラム教
 
 
『池上彰の宗教がわかれば世界が見える』では、世界の宗教を、世界地図のうえで地理的・空間的に見ることができました。 

一方、本書では、仏教を基軸にして、今度は、歴史的な流れをとらえることができます。

歴史的な見方もできると、本来は歴史的なるものが、世界地図上では空間的にひろがって見えていることもわかってきます。

このように、地理的・空間的な分布を地図上でおさえる一方で、歴史的・時間的にも情報を整理してみると、物事の理解は一層すすみます。


▼ 文献
池上彰著『池上彰と考える、仏教って何ですか?』飛鳥新社、2014年10月24日


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仏教と一神教との違いを知る -『池上彰の宗教がわかれば世界が見える』-
グローバルな視点にたって仏教をとらえなおす -『池上彰と考える、仏教って何ですか?』(2)-
自分を知り、他人や他国を理解する -『池上彰と考える、仏教って何ですか?』(3)- 

『池上彰の宗教がわかれば世界が見える』の第8章(最終章)では、池上彰さんと解剖学者の養老孟司さんとが対談していて、仏教と一神教との違いなどについて解説しています。

池上 キリスト教やイスラム教では、死んだら「最後の審判」があり、天国と地獄に振り分けられる、という死生観ですね。

養老 (中略)生きている時の行いが善だったか悪だったか決められるっていうからには、その人の一生を通した総体としての「自分」みたいなものが前提になっている。それが一神教の文化です。

でも仏教は「無我」というように、「私なんて無い」という立場です。人間は日々変化していき、今ある姿はかりそめのものに過ぎない。されにいえば、「生きている」ということだってかりそめでしょう。

その世界に一神教みたいな自己を入れても、折り合うわけがない。これは、いちばん根本的な違いじゃないかと思います。

(中略)

養老 一神教は、都市の宗教です。自然から切り離され、人間しかいない人工世界ですから、死生観だって人間中心主義になる。日本は世界から見れば「田舎」に属していて、一神教が普及しなかった。

このように、仏教と一神教とは根本的に違うということがのべられています。


また、一神教に関連して、宗教と科学の住み分けについてのべています。

養老 西洋の場合は、宗教と科学は対立するというより、表裏一体でしょうね。(中略)

池上 要するに、それぞれが住み分けをするという形での妥協ですね。(中略)

養老 デカルトが典型ですね。人間についても心身二元論になって、心のほうは宗教の領域、身体のほうは科学の領域と切り分けるようになった。


デカルトについては、池上さんはつぎのように説明しています。

有名なのは、「我思う、ゆえに我あり」という言葉です。知覚される全てを疑っても、その疑っている精神が存在することは疑いようがないということを起点として、デカルトは新しい哲学の方法を述べました。それが理性によって真理を探究するという近代哲学の出発点となり、身体を含めて世界を機械とみなす世界観の確立ともなりました。この世界観、身体観の上で、ヨーロッパの近代科学は展開したのです。


そして、文明の衝突についてのべています。

池上 世界全体をみると、キリスト教とイスラム教の対立といった、「文明の衝突」が言われます。再び宗教の時代に入ってきているのでしょうか。

養老 一神教同士はぶつかるようにできているんですよ。十字軍はまさにそうだし、ヨーロッパの中でもカトリックとプロテスタントの間で三十年戦争が起きています。

今日、グローバル化がすすんできて、出身のことなる人々が世界各地で混在するようになり、あらたな衝突もおこりはじめたと言えるのではないでしょうか。

最近の世界のニュースを理解するためには、世界の宗教、特に一神教に関する基本的な認識がやはり必要でしょう。一神教について知るためには、仏教や神道との相違を知ることがひとつの重要な方法になります。そのために、池上さんらの解説はとても参考になるとおもいます。


▼ 文献 
池上彰著『池上彰の宗教がわかれば世界が見える』(文春新書)文藝春秋、2011年7月20日


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150104 国立民族学博物館 世界地図
国立民族学博物館の世界地図

これは、国立民族学博物館の地域展示のコンセプトにそってつくられた世界地図です。展示ガイド(注)から引用しました。地球上を、文化的なまとまりにもとづいて、9つの地域に分けています。これは、わかりやすい世界の見取り図としてつかえます。

それぞれの地域の文化的特色をつかむためには宗教について知ることが重要です。この地図から、世界の宗教の分布も見えてきます。大局的に見ると、たとえば、つぎのような地域と宗教との対応関係があります。宗教を、空間的なひろがりとしてとらえなおすことができます。

 ヨーロッパ:キリスト教
 中央・北アジア:イスラム教、キリスト教
 西アジア:イスラム教
 南アジア:ヒンドゥー教
 東アジア
  チベット:チベット仏教
  中国:儒教(一部は道教)
  日本:日本仏教
 東南アジア:上座部仏教(一部はイスラム教)
 アメリカ:キリスト教

西アジアに北アフリカがふくまれているところなどに注目してください。


また、いわゆる文明との対応関係もあります。伝統的な文明を空間的にとらえなおすことができます。

 ヨーロッパ:ヨーロッパ文明
 西アジア:イスラム文明
 南アジア:ヒンドゥー文明
 東アジア
  チベット:チベット文明
  中国:中国文明
  日本:日本文明


この世界地図をおぼえておけば、世界のニュースやグローバルな情勢に接したときに理解がすすむとおもいます。


博物館のなかをあるいて見学すると、各展示物とその解説は、博物館のなかの特定の展示室での体験として記憶されます。

そして一通り見おわったら、それぞれの展示室での歩行体験、展示物を見たときの体験を、この地図上でとらえなおしてみるとよいです。すると、それまでの体験が、今度は、地図上の特定の地域にむすびつけられて理解され記憶されることにもなるのです。

こうして、この世界地図の9つの地域は、それぞれが情報のひとまとまり、情報のユニット、つまりファイルになります。すると、この地図は、そのようなファイル(展示物のイメージや解説などの情報)を想起するためのインデックス・マップとしてもつかえるようになります。折にふれてこの世界地図を見なおすことにより、博物館のなかでの体験を、地域ごとにおもいだすことができるのです。

* 

国立民族学博物館には、かならずしもそのことがガイドにしめされているわけではありませんが、理解や記憶や学習のための よくできた仕掛けが随所にあります。情報処理の訓練と世界の理解のために、とてもつかい勝手のある博物館だとおもいます。


▼ 注
『国立民族学博物館展示ガイド』国立民族学博物館、2012年3月30日 


国立民族学博物館 >> 

『池上彰の宗教がわかれば世界が見える』は、神道についても解説しています。

池上 そもそも神道における神様とは何ですか?
安蘇谷 まず祖先の霊です。それから自然ですね。太陽神とか風の神とか。あるいは海山川などのご神霊を祭っています。
池上 それで八百万の神といわれるくらい、たくさんの神様がいらっしゃるということになるわけですね。
安蘇谷 自然の現象が多岐にわたりますから。その意味ではキリスト教やイスラム教のような一神教の「神」とはまったく意味合いが異なります。(中略)
明治以降にユダヤ・キリスト教の「ゴッド」という観念が入ってきたために、混乱が生じた。

このように、神道でいう「」と一神教の「ゴッド」とはまったく意味がちがうことを知っておくことは重要なことでしょう。ここがおさえられていないと誤解が生じてしまいます。

また、つぎのようにものべています。

安蘇谷 八百万のようなあり方は日本だけでなく、世界中もともとそうだったんですね。たとえば古代ギリシアやローマあるいは北欧人なども、やはり自然に基づいた多神教を信じていた。
池上 ええ。まだ、インドシナ半島に行くと、あちこちに精霊のような神様が宿るという宗教がありますものね。アフリカにもあります。
安蘇谷 中近東にもあったんですよ。ところが、一神教の神様が出てきて、八百万の神が駆逐され、妖怪のようなものと一緒くたにされてしまったのです。

つまり、中近東〜ヨーロッパにも多神教はあったのに、一神教によって駆逐されてしまったというわけです。

この「多神教→一神教」という流れは、宗教の歴史的な見方です。
 
世界の宗教について理解するためには、第一に、世界地図上での分布を知ることが重要です。しかし、そのつぎには、ここにのべられているように、歴史的な理解も必要でしょう。空間的な分布にくわえて、時間の流れの中で物事の順序を理解するのです。

このように、第一に空間的に、第二に時間的に整理して世界の宗教をとらえるとわかりやすいとおもいます。
 

▼ 文献
池上彰著『池上彰の宗教がわかれば世界が見える』(文春新書)文藝春秋、2011年7月20日


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世界の宗教分布を地図上でとらえる -『池上彰の宗教がわかれば世界が見える』(1)-仏教と一神教との違いを知る -『池上彰の宗教がわかれば世界が見える』(3)- 

仏教、神道、キリスト教、イスラム教の要点を説明した、世界の宗教の入門書です。世界のうごきをとらえるために、宗教のことを理解しようと主張しています。どこかの宗教に入ることをすすめる本ではありません。

最初の方にでている「世界の宗教分布マップ」がもっとも役に立ちます。

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世界の宗教分布マップ 

これをよく見て、地球上での各宗教の分布をおさえてから本文を読むとよいでしょう。本文は対談になっていますが、各章のおわりに「インタビューを終えて」と題してまとめがしてありますので、ここをよく読むとわかりやすいです。

上の分布図を見れば、宗教とは元来は地域的なものであることがよくわかります。これは、ひろい意味のすみわけと言ってもよいかもしれません。宗教には分布範囲があり、それぞれの分布範囲のなかにおいて、その宗教にもとづく独自の文化がはぐくまれてきました。

また、宗教から気候風土が見えるそうです。

どの宗教にも、それぞれの土地の気候風土が反映しているのではないでしょうか。

たとえば中東の砂漠地帯では、人間は本当に無力な存在で、ちょっとした砂嵐に巻き込まれただけで、あっという間に死んでしまいます。大自然の恐ろしさを、ひしひしと感じさせる風土です。(中略)

神様によってすべてが創られているとする一神教の厳しさは、あの砂漠の中だからこそ生まれ、育ってきたものでしょう。

それに対して、熱帯についてはつぎのようにのべています。

人間を含めた生き物はあっという間に死ぬけれども、次々に新しい生命が生まれてもきます。(中略)

輪廻転生とは、そのような熱帯の自然の中から生まれた思想なのではないでしょうか。

このように、世界の宗教をとらえるときには、地理的空間的な分布を知り、それを、その地域独自の自然環境とむすびつけて理解するとわかりやすいとおもいます。


▼ 文献
池上彰著『池上彰の宗教がわかれば世界が見える』(文春新書)文藝春秋、2011年7月20日


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第一に空間的に、第二に時間的に整理してとらえる - 池上彰著『宗教がわかれば世界が見える』(2)-
仏教と一神教との違いを知る -『池上彰の宗教がわかれば世界が見える』(3)-
世界の宗教を比較して理解する -『[図解]池上彰の世界の宗教が面白いほどわかる本』-

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写真1 大阪市立自然史博物館の入り口

大阪市立自然史博物館では、自然の歴史、地球の歴史についてまなぶことができます。特に、第2展示室では、化石を見ながら、地球と生命の歴史についてくわしく理解することができます。

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写真2 第2展示室の化石展示

地球は、約46億年前に誕生しました。

約35億年前になると、最初の生命が誕生しました。

地球の歴史は、動物の進化にもとづいて時代区分されています。それは、古生代、中生代、新生代となっています。

古生代の初めには、海にすむ生物の数や種類が飛躍的に増え、ほとんどの脊椎動物があらわれました。

中生代は、「恐竜とアンモナイト」の時代です。植物界では裸子植物の時代になりますが、中生代後半に入ると被子植物があらわれました。

新生代第三紀は「哺乳類の時代」とよばれ、哺乳類が大発展しました。

そして、新生代第四紀(約200万年前)になってからは、人類が大発展しました。

このような自然史については、博物館で化石などを実際に見ることによって、とてもリアルに具体的に理解することができます。


ところで、大阪市立自然史博物館の別館ネイチャースクエアには、「自然史」ではなくて「自然誌」の展示がありました。これらは似ているようで異なります。「自然史」が、時間的歴史的な見方をするのに対して、「自然誌」は、どちらかというと空間的な見方を重視します。つまり、つぎのような対応関係があります。

自然史:時間
自然誌:空間


そこで、大阪市立自然史博物館の別館ネイチャースクエアの「自然誌」の展示では、空間的な見方を意識し、本館第2展示室の「地球と生命の歴史」展示では、時間的歴史的な見方を意識することによって、一見、非常に複雑に見える自然の現象あるいは地学の知識をすっきりと整理することができます。このあたりがごちゃごちゃになっていると混乱が増してしまいます。

このように、空間的な見方と時間的な見方をよく整理して、そしてそれらを組みあわせることは、複雑なことを見通しよく理解することに役立ちます。


大阪市立自然史博物館 >> 


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里山のモデルをつかって大阪の自然誌をとらえる - 大阪市立自然史博物館 - 

『梅棹忠夫 語る』では、梅棹さんが、まだ学生だったころ、自然学者・今西錦司から指導をうけたことがかたられています。

三校時代に世界の未開地の探検を夢見ていた仲間がいた。意気盛んやったが、強力なリーダーが必要であることを痛感していた。それは今西錦司をおいてほかにないと、今西さんを行きつけのおしるこ屋の二階まで引っ張りだし談判して、承諾を得たんや。

リーダーとしての今西さんの力量はめざましいものやった。行動の判断はもちろんのこと、フィールド・ワークを進めながら思索を深めていく手法を骨の髄までたたきこまれたな。


フィールド・ワークを進めながら思索を深めていく手法」というところがポイントです。今西錦司の指導・影響はとても大きかったことがうかがえます。

そして、実際に探検をすすめていきました。

北部大興安嶺縦断(一九四二年)をやった。探検隊の見習士官として訓練を受けた「今西グループ」のはじめての実戦でした。そのあと今西さんが所長だった西北研究所に行ってモンゴル調査もやった。

このような探検が、梅棹さんの仕事の基礎になっていることがわかりました。


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探検がフィールドワークに発展する 〜今西錦司編『大興安嶺探検』〜

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ミステリー・テレビ映画『刑事コロンボ』でコロンボを演じたピーター=フォークは、『ピーター・フォーク自伝』(注)のなかで、アイデアが生まれたときのあるエピソードについてのべています。

“糸口”のヒントはどこに転がっているかというと、意外な出どころだったりする。たとえば歯医者の待合室、しかも開業したばかりの歯医者だったり。

手持ちぶさたのわたしは待合室のラックを眺めた。(中略)『ポリス・チーフ』誌だ。表紙の見出しには“歯形の物証”とある。

それから5年ぐらい経ったころ、わたしたちは『完全犯罪の誤算』って題された脚本を手にした。(中略)なにより残念なことは、決め手になるオチがもうひとつ甘かったことだった。引き出しで寝かせておいた『ポリス・チーフ』誌を取り出したのは、まさにこのときだ。

こうして、『刑事コロンボ』新シリーズのなかの傑作『完全犯罪の誤算』が誕生しました。予期せぬところでえられたアイデアが、実に、5年後に生かされたのです。

すばらしい糸口にはいつどこで、どういった形で巡り会えるのかわからない。

本当にいいネタっていうのはすごく稀だし見つけにくいもんだけど、なにかの拍子に現れるもんだ。

貴重な言葉です。

ピーター=フォークは、刑事コロンボをただ単に演じていただけではなく、作品づくりに積極的にかかわっていました。


▼ 注:文献
ピーター・フォーク著『ピーター・フォーク自伝 「刑事コロンボ」の素顔』東邦出版、2010年12月1日
「刑事コロンボ」に命をふきこんだ、ピーター=フォークの波乱にとんだ人生がつづられています。

『梅棹忠夫 語る』の第四章「情報は分類せずに配列せよ」では、あつめた資料や情報のとりあつかい方についてかたっています。

分類するな、配列せよ(中略)大事なのは検索。

この原則は今日では常識となりました。

現代では、資料や情報はすべてコンピューター・ファイルになりますので、ファイル名にキーワードや日付をいれるなどして、ファイル名を適切につくっておけば、検索はできます。したがって、ファイルは分類せずに時系列にファイルしてゆけばよいわけです。

問題は、集積されたファイルをどう活用するかという、つぎの段階にあります。その方法として、梅棹さんは「こざね法」を提案しています。



つぎに、情報産業についてのべています。

情報と産業を分けて考えたらあかんねん。情報産業と言うもんや。(中略)工業時代の次に来るのが、情報産業の時代ですよ(中略)一種の進化論です。農業の時代、工業の時代、その次に来るのが情報産業の時代。

梅棹さんは、単なる情報論を展開したのではなく、文明学あるいは進化論のなかに位置づけて、情報産業を論じています。

わたしたちは、今日、情報産業時代に突入したのであり、人類進化の真っただ中にいるのです。そんことは大げさだとおもう人がいるかもしれませんが、そうではありません。あとの時代の人類から見れば、20世紀末から、大規模な情報革命がおこり、情報産業の時代に入ったということはあきらかです。

したがって、情報処理の方法をとりあつかうときに、技術も無論必要ですが、単なる技術論におちいらないで大局をとらえることが大切です。


梅棹忠夫著『知的生産の技術』についてはつぎのようにのべています。

コンピュータ時代を先取りしたもの、基本設計図。

コンピュータは、要するにノートと鉛筆だ。

梅棹さんは、文明学を大規模に展開しましたが、それだけではなく、情報技術の開発にもとりくんだことに注目しなければなりません。技術から文明学・進化論までを総合的に論じ、同時に、文明の大局のなかに技術を位置づけて実践しました。

このように、大局をとらえたうえで、技術にとりくんでいくことが重要なのだとおもいます。

1911年12月14日、人類は、はじめて南極点に到達しました。到達したのは、ノルエーの探検家ロアール=アムンセンひきいるアムンセン隊でした。

午後三時。「とまれ!」という声が三台のソリの御者たちからほとんど同時にあがった。ソリにつけている距離計が、いっせいにゴールインの数値を示したのだ。非天測推定の極点、つまり南緯90度。

ひと息ついた五人は、われにかえると一つにかたまり、力いっぱい握手をかわして成功を祝った。アムンセンという強力な指導者のもとに、いまこそ人類史に輝く一項が、五人のたぐいない団結と勇気によって達成されたのである。五人は感動のあまり言葉も少なく、ただその力をこめた握手に、たがいの気持ちを伝えあうのだった。

しかし、この時点で、南極点をめざして、あとからすすんでくるもうひとつの隊、英国ロバート=F=スコット大佐ひきいるスコット隊がありました。

近づくにつれ、しかし、それは自然のものではなくて人工物だということがはっきりしてきた。たしかに最近極点を訪れた人間がいたのである。(中略)もう疑う余地はない。ノルエー隊に先を越されたのだ。

もう道を探す必要もなかった。皮肉なことにアムンセン隊の足跡がはっきりとついていて、立派な道案内をしてくれるのだから。

希望の土地が一転して絶望の土地になったのである。

スコット隊は、アムンセン隊におくれること34日、1912年1月17日に南極点に到達しました。

こうして、前人未踏の南極点をめざす「地上最大のレース」は、アムンセン隊の勝利、スコット隊の敗北という結果におわりました。


本多勝一著『アムンセンとスコット』は、この「地上最大のレース」について、「勝った側」と「敗れた側」を同時進行的に叙述した実話です。

本書を読んでいると、アムンセンは幸運であり、スコットは不運であったというような簡単なことではなく、アムンセンは成功するべくして成功し、スコットは敗れるべくして敗れたという必然性を読みとることができます。

たとえば、アムンセンは、わかいときから、自分の強烈な意志で、極地探検家へと驀進したのに対し、スコットは、英国海軍の軍人であり、王立地理学協会の会長マーカム卿にみこまれて「任命」されて隊長になったのでした。

こうしたことが、極点への情熱と心がまえや、隊の運営方法の差としてはっきりあらわれてしまいました。主体性は、人間行為にとって本源的に重要であることをあらわしています。

南極点をめざすというおなじ行動をしながらも、両者には大きな相違があり、わたしたちが彼らからまなぶべき点はたくさんあるとおもいます。


人類で最初に南極点に到達したアムンセン隊の偉業は、人類史上の記録的意味、歴史的意味をもっています。これは、単なる冒険とはあきらかにちがいます。

これは、地球上の空白領域をうめていく行為であったのあり、パイオニアワークでした。地平線のむこう、フロンティアをもとめる行動です。人類は、本源的には、既知の領域から未知の領域に旅をする存在であるとかんがえられます。このことが、現在でも世界の人々が、オリジナリティー(独創性)を必要とする姿勢となってあらわれているのでしょう。

したがって、もし、そこに誰かが足を踏みいれたならば、その瞬間に、そこはもはや空白領域ではなくなってしまい、そこにはもう、フロンティアは存在しなくなるのです。

ここに、アムンセンとスコットが熾烈な競走をした理由、なぜ「最初」に南極点に到達しなければならなかったのか、2番目ではだめだったのかという理由があるのだとおもいます。 

* 

スコット隊は、帰路、全滅してしまいました。彼らの失意も、人類史上にのこる大きなものであったことでしょう。スコット隊はたしかに敗れました。しかし、アムンセンもスコットも、ともにパイオニアワークをめざしたのであり、パイオニアワークは、たとえ敗れても、堂々としたやり方だとおもいます。


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本書は、最近話題の LCC について解説した入門書です。かつてはとても高価だった飛行機の旅が、LCC の登場で身近な存在となり、誰でも手軽にたのしめるようになりました。空の旅はいまやカジュアルなものとなりました。

本書によって、日系 LCC、LCC の利用の仕方、日本の空の旅、お得な情報など、LCC について手っとりばやく知ることができます。

空の旅がおもしろいことのひとつは、上空から、地上をながめられることにあるでしょう。つまり、地上にいるとわからない、地域の大局が一気につかめるのです。

また、旅行は、その最中もたのしいですが、かえってきてからそれをふりかえることにもおもしろさがあります。旅行からかえってきて、あとからその旅行を見なおし、とらえなおしてみると、全体像や印象がよくわかります。つまり旅の大局がつかめます。

対象のなかにいるときよりも、そこからはなれて、とおくから見た方が大局はよく見えるものです。

この原理は、複雑な物事の大局をとらえたり、圧縮するときにつかうことができます。いろいろな出来事がかさなったり、むずかしいことがおこったときには、そのときはとりあえずやりすごし、しばらくたってから見なおし、とらえなおしてみると、全体像がわかり、意外に簡単に活路が見つかったりします。

このように、空の旅は、わたしたちに、大局をつかむというあらたな視点をあたえてくれます。 

最近は、スマートフォンに搭載されたカメラの性能が非常に高くなり、誰でも手軽に、きれいな写真がとれるようになりました。わたしは、iPhone 6 Plus に機種変更したところ、手ぶれ補正機能があり、接写もでき、くらいところでもよくうつるので満足しています。

毎日のように写真を撮影していると膨大な枚数の写真がたまってきますが、iPhoto などの写真アプリをつかっていれば、簡単に整理ができるので問題はありません。

そして、たとえば iPhoto でしたら、テーマ別に「アルバム」や「ブック」(フォトブック)や「スライドショー」をつくることができます。テーマを決め、関連する写真をピックアップして、アルバムなどをつくることはとてもたのしいことです。

あるいは、旅行にいって撮影した写真のなかから、特に印象にのこった写真をピックアップしてフォトブックをつくれば一生のおもい出になります。

このような作業をするときには、写真は、体験の「アイコン」であると意識するとよいです。

1枚の写真をピックアップして見なおすときに、その写真の外側(周囲)がどのようであったかをおもいだすようにします。写真を中心にした、もっと大きな空間的ひろがりを想起するのです。

また、写真を撮影した瞬間の前後はどうであったのか、自分自身をおもいだします。つまり、その瞬間だけではなく、前後の時間的ひろがりも想起するようにします。

こうして、見たことだけでなく、聞こえたこと、感じたこと、かんがえたことなどもふくめて、その写真を撮影したときの自分自身の体験のひとまとまりをよくおもいだします。

この作業は、写真をアイコンにして、みずからの体験のひとまとまりを「ファイル」にすることです。

ファイルとは情報(データ)のひとまとまりのことであり、それは、アイコンなどの見だし・標識(ラベル)からなる上部構造と、情報の本体の下部構造とからなります。

141203 アイコン&体験

図 写真をアイコンにして、体験のひとまとまりをファイルにする。


このような「体験ファイル」を意識しながら、アルバムやフォトブックやスライドショーなどに写真を整理していけば、比較的短時間で、これまでの自分の体験を整理することができます。

こうした体験の整理は、言語をつかっておこなうこともできますが、言語をつかっているとかなりの時間がかかってしまいますので、まずは、写真をつかっておこなうのがよいでしょう。

「体験ファイル」を整理し集積していると、いままでボヤッとひろがっていた、つかみどころがない体験に締まりが生じてきて、いくつもの小さな体験のかたまりがあつまって、より大きな体験がなりなっているのだということを実感できるようにもなります。

梅棹忠夫著『知的生産の技術』の「おわりに」で、梅棹さんはつぎのようにのべています。

このシステムは、ただし、まったくの未完成のシステムである。社会的・文化的条件は、これからまだ、めまぐるしくかわるだろう。それに応じて、知的生産技術のシステムも、おおきくかわるにちがいない。ただ、その場合にも、ここに提示したようなかんがえかたと方法なら、じゅうぶん適応が可能だとおもうが、どうだろうか。

本書のかんがえ方と方法で適応が可能だとおもいます。

人類は、1990年代に情報化を本格化させました。情報革命は今後ともすすみ、情報産業社会はおおきく発展するでしょう。

しかし、本書を通してあきらかにされた「知的生産」のかんがえ方については今後とも変わらず、この原理は普遍的なものとして時代を超越していくとかんがえられます。たしかに、つかう道具はあたらしいものに変わりますが、ここにしめされた原理をつかっていれば、あたらしい時代にも適応ができるとおもいます。

本書が発行された1960年代といえば、まだ、工業化のまっただなかにあり、情報産業社会の到来、高度情報化についてはほとんどの人は意識していなかったとおもいます。しかし梅棹さんは、知的生産の研究開発を通して、その原理に気がつきました。今日からみれば、情報化のパイオニアであったとかんがえられます。


梅棹さんは、本書において、みずからの研究開発の過程を、その第一歩からくわしく書いて、そのなかで知的生産の原理についてかたっています。意識して筋道を書いて、技術の発展史とともにその原理をかたっているのです。本書が47年間も読みつがれ、ロングセラーになっている理由がここにあるのだとおもいます。

これがもし、研究開発の結果や最新の成果だけを書いたとすると、それは、2〜3年たつとふるくなって役にたたなくなってしまいます。

梅棹さんの書き方は、文章の書き方のひとつのモデルとしてつかえます。つまり、研究開発の過程も書いてよいのです。むしろ、そのようなみずからの実体験を具体的にしめして、自分があるいてきたその道のりを通して、原理や本質をかたった方が、メッセージはつたわりやすいのだとかんがえられます。

データと原理を教科書的にのべるのではなく、物語としてかたります。すると、それからどうなったのか、誰もが知りたくなります。その先の進歩については、今日のわたしたちが知っているとおりです。そして、物語は、さらに未来にむかってつづいていきます。

このような意味で、『知的生産の技術』は、情報化の最初の一歩の物語でもあったのです。情報産業社会は今後とも大きく発展するでしょうが、本書は、知的生産あるいは情報処理に関する古典として、後世まで読みつがれていくことでしょう。


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「知的生産の技術」も情報処理になっている
体験情報の処理をすすめよう 〜梅棹忠夫著『情報の文明学』〜
イメージ能力と言語能力とを統合して情報を処理する 〜 梅棹忠夫著『ひらめきをのがさない! 梅棹忠夫、世界のあるきかた』〜
旅行とともに知的生産の技術を実践する - 梅棹忠夫著『知の技術』-




iPhone 6 Plus に機種変更したので iPhone についていろいろしらべていたら、iPhone 6 & 6 Plus のCMがダサいと話題になっていることを知りました。



たしかにひどいCMです。

iPhone 5 のCM(下)がよかっただけに目立ちます。



そもそもアップルは、iPhone や iPad を通して、商品のスペックがどうだとか、性能がどれだけよくなったとかいうことよりも、あらたな生活のシーンあるいはライフスタイルをユーザーに提案してきました。

ここに、製造業(物づくり)の会社と情報産業の企業との決定的なちがいがあります。

たとえば、iPhone 5 のCMに見られるように、あたらしい撮影のシーン、撮影のあらたなスタイルを生みだしました。

あるいは、iPhone や iPad の録音で一般につかわれている MP3 はCDよりも音質はおとります。しかし、そのようなスペックよりも、あたらしい音楽のシーン、音楽をきくあらたなスタイルを生みだしたことに意味があります。

このような観点から iPhone 6 & 6 Plus をとらえなおすと、たしかに、大きさが大きくなってつかいやすくなり、性能も上がりましたが、あたらしいシーン、あらたなスタイルを生みだすという点では弱いといわざるをえません。

しかし、むしろ今後は、ハードウェアではなく、あたらしいサービスに注目した方がよいでしょう。

具体的には、iCloud をつかったクラウドコンピューティングがあたらしいシーン、あらたなスタイルを生みだしていくとかんがえられます。iCloud 同期にとどまらず、iCloud Drive、ファミリー共有、iCloud フォトライブラリ、iTunes Match などのあたらしいサービスがつぎつぎにつかえるようになりつつあります。こでは、iPhone とか iPad とか Mac などのデバイスにはとらわれずに、ユーザーが主体となってこのようなサービスをつかいこなすシーンが想像できます。

今はまだ、そのような段階への過渡期であるために、iPhone 6 のCMは現在のところは中途半端な内容になっているとおもわれます。

デバイス(ハードウェア)にとらわれるのではなく、クラウドの発展をとらえ、さらに、クラウドをつかった情報処理にこれからは注目していきたいものです。

 
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