< |2 >
第3章 和食の成り立ち ① 先史時代〜幕末の和食


東名遺跡(ひがしみょういせき、佐賀県)の縄文人は、植物資源としては、イチイガシやオニグルミなどの堅果類を利用していたほか、土器についた圧痕からツルマメなどを食べていたことが分かっています。加工や干潟に生息するヤマトシジミやハイガイ、カキの殻も大量に出土しています。魚類では、スズキやボラ、クロダイなど比較的大きな魚の骨が出土(中略)、陸上動物では、シカとイノシシの骨が圧倒的に多く、出土した哺乳動物の骨の9割を占めています。

20-06-18 16.20.21のコピー
 縄文人の食(出典:佐賀市教育委員会)



日本列島に人がくらすようになったのはふるければ約10万年前、もっとも確実なところでは3万年ほど前の旧石器時代からとされます。この時代は氷河期に属しますから、植物性食料よりも動物性食料が中心だったとかんがえられます。

やがて1万6千年くらい前の縄文時代から温暖化がはじまり氷河がとけて海水面が上昇し、ゆたかな植物相がひろがり、漁労もさかんになり、しかも土器の発明によって煮炊きができるようになります。

縄文時代は、およそ1万6千年から3千年前までつづき、この時代に日本列島にすんだ人々を縄文人と総称します。彼らは、基本的には狩猟採集民であり、本格的な農耕はおこなっていませんでしたが、マメやクリなどを選択的にそだてて利用していたことがわかっています。


弥生時代には、新モンゴロイドという人々がやってきて、水田稲作の技術と同時に金属器も伝えられました。


およそ3千年前から紀元後3世紀中頃までが弥生時代であり、この時代から、本格的な水田稲作が日本列島ではじまります。米は、温暖湿潤なモンスーンアジア地帯ですでにひろく栽培されていました。

近年の DNA 研究によると、現代の日本人につたわる縄文人の遺伝子は約10%程度であり、わたしたち日本人は基本的には、弥生時代以降に日本列島にやってきた稲作農耕民の子孫であることがわかっています。したがって弥生時代に、米と魚を中心とする日本の食文化の基礎がととのい、それが、今日までひきつがれているとかんがえられます。

「魏志」倭人伝には、弥生時代末期から古墳時代初期にかけての日本人の生活がえがかれています。


漁撈(ぎょろう)をよくするほか、冬も夏も生野菜を食し、食事は手で行った。


当時の食事は、米飯を中心として、タイやスズキなどの海魚やアユ・フナなどの川魚とアワビやタニシなどの貝類のほか、狩猟によるシカや飼育したブタの肉、それに根栽や野菜などが基本だったようです。

7世紀ごろになると、箸がつかわれるようになったことが出土遺物からわかります。はじめは役人層が主でしたが、8世紀も末ごろになると都の庶民にもひろまりました。箸とともに匙(さじ)も中国からつたわりましたが、基本的には日本には匙は根づきませんでした。外国人とはちがい日本人は、お椀を手でもちあげて、お椀の縁に口をつけて汁をすすります。

時代はくだり室町時代になると、たかい料理技術を駆使して、「本膳料理」という儀式料理の体系がつくられ、これによりそれまで発展してきた和食が一応の完成をみます。本膳料理は、有力大名の家を室町将軍がおとずれる御成の際などにだされました。また本膳料理が発達したことによりあらたな包丁流派がいくつもあらわれます。それまでは公家の四条流がメインでしたが、大草流や進士流など、武家の包丁流派もうまれました。流派ごとに料理書がつくられ、料理に関する知識と技術が秘事口伝としてつたえられます。

そして江戸時代になると、江戸の町人たちはあらたな食文化をうみだします。「ファーストフード」の登場です。


移動式の簡易な物売り屋を「屋台見世」といい、特に江戸後期になると、すし、天ぷらなどファストフードといえるものや団子、菓子類など、扱う種類が増えていきます。ほかにもてんびん棒に荷を担いで売り歩く零細な振売りは、食材はもとより豆腐や納豆、すし、菓子類なども売り歩きました。


江戸では、江戸城の拡張工事や周辺の町づくりがすすみ、急速に人口が増加、江戸は、18世紀以降は人口100万人以上の大都市となります。商店の奉公人、建設にかかわる職人、参勤交代でやってくる下級武士などのほとんどは単身者や単身赴任者であり、さらに寺社の参詣や江戸見物にくる旅人もおおく、そうした人々を相手にする外食産業がおおいに発展します。


かけそばが16文だった頃、握りずし1個が8文程度だったといいます。当時の握りずしは大変大きく、三つも食べればおなかいっぱいになったものでした。


世界の人々にいまやおなじみの握りずしは江戸のすし職人がかんがえだしたものです。それまでの箱ずしは箱につめるのが面倒なうえ、つよくおしつけて魚のうまい脂がにげてしまうという理由から、つかう道具は手、つくり方は握るだけというシンプルな方法がかんがえだされ、それを、やすい魚を市場でしいれてつくったのですから値段はたかいはずがありません。魚は、塩でしめたり酢でしめたりゆでたりするなど、下処理をして下味がつけてあり、「つけしょうゆ」はいりません。握りずしはまさに江戸庶民のファーストフードでした。

この握りずしが一気に世にひろまるのは第二次世界大戦後のことです。食糧難の時代、「飲食業は米の飯を出してはいけない」という政府に対して、「すし屋は加工業だ」といって東京の組合が抵抗し、この主張が許可されて握りずし屋が急増しました。その後、握りずしは日本中にひろまり、そして世界各地にとびだします。和食のシンボルともいえる握りずしには意外な歴史があったわけです。


生で魚を食べる作り(造り・刺し身)があるのは和食の特徴です。作りとは、包丁による調理技術で、魚介類をおいしく食べやすい形(状態)に切ったものです。


日本は海でかこまれ、新鮮な魚がとれるので、魚を生でたべる世界でもめずらしい食文化が高度に発達しました。作りには、火加減や味加減は必要なく、素材の質と料理人の包丁技術が味に直接でるため、非常に高度な技術がもとめられます。魚を「卸す」とは、たべられない部分を除去し、たべやすい切り身にすることであり、「切る」という特別な包丁技術がいります。和食の発展には、日本の刀造りから和包丁が発達したこともおおきく寄与しています。










日本列島は、海にかこまれるため豊富な海産物にめぐまれ、また南北にながく、山・川・里と、表情ゆたかな自然環境が存在し、実にさまざまな食材が手にはいります。たとえばイギリスやニュージーランドとくらべると、日本では、約4500種類ちかくの魚類が生息するのに対し、イギリスでは約300種類、ニュージーランドでは約1300種類にすぎず、また植物をみると、日本が7500種類をこえるのに対し、イギリスでは約1600種類、ニュージーランドでは約2000種類たらずであり、おなじ島国でも日本の多様性は突出しており、したがって食材が多彩・豊富で、イギリス料理やニュージーランド料理にくらべて はるかにあざやかな色彩を和食ははなっています。

また大陸の水はおもに硬水であるのに対し、日本列島の水は軟水です。水には、カルシウム・マグネシウムのイオンがおもにふくまれていて、イオンがおおくふくまれる水は硬水、すくないものは軟水とよび、地形が急峻で大河のない日本の水は軟水です。たとえば だしをとるためには軟水がよく、硬水だと、ミネラル分が だしの抽出を阻害するだけでなく、だし成分が結合して灰汁(あく)になるため だしにはむきません。あるいは日本茶の味をたのしむには軟水がよいことがしられています。水質と食文化は密接に関係しています。

こうした多様な自然環境にめぐまれたため、基本的に狩猟採集民だった縄文人も多彩な食料にめぐまれていました。縄文人は、ゆたかな食文化をすでにもっていました。

とくに、魚介類を生食する縄文人の食習慣は、おどろくべきことに現代までうけつがれ、生食は、和食の最大の特徴になりました。

和食には、「料理をしないことが料理の理想である」というかんがえ方があります。一流の料理人が和包丁で魚をおろします。魚の骨と身をきりはなし、余分なものはとりのぞき、素材のよさを最大限にひきだします。

フランス人のある一流シェフがかつていいました。
 

わたしたちの常識では料理とは味つけをすることでした。さまざまな調味料を食材にくわえて調理します。ところが日本の料理人が魚をおろすとき、まったく “料理” をしていないではないですか。魚に何もくわえません。切り方によって素材のよさを最大限にひきだします。切り方によって味がかわります。きわめて高度な職人技がそこにはあります。そしてソイソースにグリーンマスタードあわせて特性ソースをその場で瞬時につくり、生魚の切り身をさっとつけてたべる。まったくおどろきました、このような高度な食文化が地球上にあったとは。


和食を、「引き算の料理」と形容する人もいます。生食では持ち味が大事です。だから素材の味や香りを消してしまうような味つけは絶対にしません。そしてけっきょく、もっとも大事なのはよい素材をみつけることだといいます。

このような和食の伝統が縄文時代から脈々とうけつがれてきました。

なお漁労とは魚介類や海藻などの水産物をとることであり、その水産物は、現代でも「野生」のものがほとんどです。海や川にいる魚介類や海藻はほとんどがいまでも野生です。したがって現代人も縄文人と同様な漁労をしているのであり、縄文時代の様式はこのような点でも現代に息づいているといえます。

そして約3000年前、弥生時代になると、本格的に稲作がはじまります。米がくわわります。

魚と米という和食の基盤は弥生時代に形成されたといってよいでしょう。その基盤のうえに和食文化が発展し、現代の和食のシンボルともいえる握りずしもなりたちました。

魚と米をセットにしてたべることは漁労と稲作の反映であり、縄文の食文化と弥生の食文化の融合をあらわします。握りずしには、日本の歴史・文化の特徴が圧縮されています。

このように和食は、多様な自然環境にめぐまれる日本列島において、縄文人・弥生人そして彼らの子孫である日本人によってはぐくまれたのであり、日本列島と日本人の相互作用によって発展しました。和食文化は、日本列島と日本人の「合作」といってもいでしょう(図)。


200618 和食
図 和食文化のモデル


人間は、自然環境とやりとりしながら食文化を発達させたのであり、人間と自然環境のあいだに位置づけられるのが食文化です。自然環境から人間が食材をとりいれることはインプット、料理をつくることはアウトプットです。

これに対して一般の動物は、自然環境から食材をとって直接たべており、料理はしません。動物は環境と直接しています。ここに、人間と動物の相違がみとめられます。自然環境と人間とのあいだにはワンクッションあるわけです。

こうして、自然環境から人間まで全体的・総合的にみて、それぞれの地域の食文化をとらえなおしてみれば、どこへいっても、その地域の自然と民族について理解がすすみます。

たとえばヨーロッパにいくと、パンにバターをぬってたべる人々が伝統的にいます。パンは小麦から、バターは、ウシなどの家畜のミルクからつくられます。これらは小麦農業と牧畜(半農半牧)を反映しています。

あるいはネパール〜インドにいくと、ライスに、ミルクやヨーグルトをかけてたべたり、乳粥をたべたりする人々がいます。これらは、稲作農業と牧畜(半農半牧)を反映しています。半農半牧といっても、農業には、麦作か稲作かのちがいがある点に注意してください。このような視点からは日本は、稲作農業と漁労(半農半漁)といえます。

わたしは、ネパール極西地域を旅行したときに、午前はライス、夕食はパンを伝統的にたべる人々にであいました。そこも半農半牧地域ですが、稲作農業地帯と麦作農業地帯のちょうど中間地帯にあたり、米の収穫量と小麦の生産量が半々であるため、ライスとパンを半々にたべていたのでした。たいへんおもしろい体験をしました。

かつて、ネパールを旅行した日本人に、ヨーグルトをライスにかけてたべる人をみてびっくり仰天した人がいました。
「こんな食べ方してる」
まずしくてかわいそうだとその日本人はおもいましたがそれはあきらかな誤解でした。あるいは生食は、動物や原始人がやることであり、文明人はやらないとおもっていた欧米人がかつてはいましたがそれも誤解でした。

食材は、その地域独自の自然環境からうまれ、それをどう料理してたべるかはそこでくらす人々の工夫であり、それらの総和として食文化が発達します。したがって料理がうみだされる過程をみるとその地域がみえてきます。食をしり、自然環境と民族を理解することが大事です。

たとえば握りずしをたべるとき、あるいは外国で地元の料理をたべるとき、〈人間-文化-自然環境〉系のモデルをおもいうかべてみれば、背後にある環境と民族がきっとみえてきます。

特別展「和食」、中止になったのはとても残念でしたが、今回、公式ガイドブックをみて、やはり、国立科学博物館の観点はちがいました。自然環境の正確な記載にもとづいて、自然から人間にいたるまでを総合的にとらえ、考察していました。文化とは、実は、自然環境と人間を介在するものであり、いわゆる文科系の考察だけでは理解できません。文化には、自然環境も人間もしみこんでいます。



▼ 関連記事
ヨーロッパと日本を対比させて想像する - 国立民族学博物館の日本展示 -
ユーラシア大陸をモデルでとらえる - 麦作と稲作(国立民族学博物館)-
パンにバターをぬって食べる人を想像する - 国立民族学博物館のヨーロッパ展示 -
料理の背後にある世界を想像する - 海外旅行 -
日本式創造のスタイルをみる - 新横浜ラーメン博物館(2)-


▼ 参考文献
篠田謙一・佐藤洋一郎監修『特別展 和食 〜日本の自然、人々の知恵〜』(公式ガイドブック)朝日新聞社・NHK・NHKプロモーション発行、2020年


▼ 注