2020/02/05 更新
< |2 >
第3展示室 大和 王権誕生の地

関連年表

弥生時代前期
  • 水田稲作を中心とした弥生文化が広がる
  • 出雲周辺が、九州・朝鮮半島と交流を深める

弥生時代中期
  • 青銅器を使った祭祀が盛んになる
  • 絵画土器と絵画銅鐸が流行する

弥生時代後期
  • 荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡で青銅器の大量埋納
  • 山陰各地で、四隅突出型墳丘墓が盛んに造られる

古墳時代前期
  • 奈良盆地にヤマト王権が成立する
  • 奈良盆地を中心に前方後円墳が築かれる

古墳時代中期
  • 巨大古墳が各地に築造される
  • 421年 倭王讃が宋に使いを送る
  • 人物・動物埴輪が古墳に樹立されるようになる

古墳時代後期
  • 横穴式石室が全国に普及する
  • 装飾付大刀、冠、金銅製馬具が普及する
  • 538(552)年 百済聖明王が仏像等を伝える(仏教公伝)

飛鳥時代
  • 593年(推古天皇元年)聖徳太子が推古天皇の摂政になる
  • 659年 出雲国造に命じて出雲大社を修造させたという
  • 701年 大宝律令を制定する

奈良時代
  • 710年 平城京に遷都
  • 712年 『古事記』が編纂される
  • 720年 『日本書紀』が編纂される
  • 733年 『出雲国風土記』が編纂される

弥生時代には、出雲を中心とした広域文化圏あるいは王国があり、それは、青銅器文化を高度に発達させました。しかし弥生時代末期になるとその時代はおわり、ヤマト王権が奈良盆地に成立、古墳時代がはじまります。弥生時代末期には、おおきな歴史的事件があったことが想像できます。ヤマト王権はその後、飛鳥時代、奈良時代と、全国統一をすすめていきます。『古事記』『日本書紀』『出雲国風土記』はいずれも、ヤマト王権が国家基盤を確立していくなかで、時の権力の立場にたって、時の権力者が編纂した書です。


画文帯神獣鏡・三角縁神獣鏡(奈良県天理市・黒塚古墳出土、古墳時代・3世紀)
画文帯神獣鏡1面と三角縁神獣鏡33面が出土しました。竪穴式石室内の被葬者の頭部付近をコの字状にかこむようにおかれた三角縁神獣鏡は、1つの古墳から出土した数としては全国最多です。被葬者側に鏡面をむけて、被葬者を護り鎮める意図をもっていました。

3世紀に、ヤマト王権が成立すると、王権は、そのシンボルとして巨大な前方後円墳を築造し、葬送儀礼を主導しました。


埴輪 飾り馬(奈良県田原本町・笹鉾山二合墳出土品、古墳時代・6世紀)
馬は、顔は顎がやや角ばり、とがった耳、ふくらみをもたせた胸など、写実的な表現をとり、馬具は、粘土紐や粘土のはりつけによって適切に表現されています。人物埴輪と馬形埴輪は近接して出土し、馬をひく人が馬の前面に配置されていたとかんがえられます。古墳時代の風俗がわかります。


七支刀(しちしとう、奈良・石上神宮蔵、古墳時代・4世紀)
石上神宮(いそのかみじんぐう)につたわる宝剣であり、左右の3つずつの枝刃と、幹となる本体の刃先をあわせ7つの枝があるようにみえる刀剣は唯一無二のものです。表裏あわせて61文字の銘文が金で象嵌(ぞうがん)されており、銘文の文意からは百済王から倭王におくられたものと解され、日本史の一級史料といえます。




第4展示室 仏と政(まつりごと)

飛鳥寺塔心礎埋納品(奈良県明日香村 飛鳥寺出土、飛鳥時代・6世紀)
飛鳥寺は、崇峻天皇元年(588)に造営が開始された日本で最初の本格的寺院です。塔を中心に、東・西・北に金堂をおく、一塔三金堂形式の伽藍配置をとっていました。埋納品のうち、玉類、金環、馬齢、挂甲、蛇行状鉄器などは古墳の副葬品と共通し、古墳時代の伝統的儀礼の様相をしめします。一方、金や銀延板、金、銀小粒などは、供養のために舎利とともに埋納された舎利荘厳具であり、百済の僧・技術者たちとともに仏舎利がもたらされて飛鳥寺を創建したという『日本書紀』の記述と一致します。古墳時代の伝統的儀礼と新来の仏教儀礼が共存することは、古墳時代から飛鳥時代へのうつりかわりを象徴しています。


浮彫伝薬師三尊像(奈良・石位寺蔵、飛鳥~奈良時代・7~8世紀)
三輪山(みわやま)の麓につたわった石仏です。遣唐使の時代、中国からつたわった造形をもとにつくられました。奈良時代以前の石仏は大変めずらしく、風化せずにここまでのこったのは奇跡としかいいようがありません。


法隆寺金堂壁画 第一号壁(奈良・法隆寺、飛鳥時代・7〜8世紀、複製陶板)
法隆寺金堂は、法隆寺西院伽藍の中心建物であり、世界最古の現存する木造建築物です。法隆寺金堂壁画は、7〜8世紀初頭に制作された仏教壁画の最高傑作であり、「古代東アジアの至宝」ともいわれます。本作は、釈迦浄土図をあらわしています。

DSCF0024ba
写真3 法隆寺金堂壁画 第一号壁











出雲大社は、オオクニヌシを祀る神社であり、日本でもっともふるい由緒をもつ神社のひとつです。古代には、本殿のたかさは48メートルもあったといわれ、本殿をささえていた巨大な杉の柱である「心御柱」(しんのみはしら)と「宇豆柱」(うずばしら)が平成12年(2000)に出雲大社境内で発見されたことにより、かつての本殿の巨大さが裏づけられました。

出雲は、弥生時代前期(の後半ごろ)から、日本海をとおした交流によって独自の文化を形づくります。弥生時代中期には、青銅器をもちいた祭祀をさかんにおこない、青銅器文化を高度に発達させます。そのことは、荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡などの発掘調査によって証明されました。

しかし弥生時代末期になると、ほかの地域に先がけて青銅器祭祀がまったくおこなわれなくなります。そして四隅突出型墳丘墓とよばれる巨大な墳墓を舞台とした祭祀へかわります。いったい出雲で何があったのでしょうか?

3世紀になると(古墳時代になると)、ヤマトの地(現奈良盆地)にヤマト王権が成立、王権は、ヤマトを中心とした統一国家づくりをすすめます。政治や権力の象徴として前方後円墳をつくりはじめます。大陸との交流をとおしてさまざまな文物や技術を獲得し、えられた舶載品やその模倣品を各豪族にあたえることで王権の基盤を堅固なものにしていきます。

6世紀半ばになると仏教が伝来し、ヤマト王権は、中央集権国家をめざして国家的に仏教をとりいれ、寺院の建立をはじめます。飛鳥時代後期には、全国各地に寺院がつくられるようになります。政治や権力の象徴としての古墳がはたした役割は寺院がになうようになります。仏教における鎮護国家の理念のもとに、国を守護する四天王像のような尊像もつくります。また遣隋使そして遣唐使により大陸の最新の知識や技術をさらにとりいれます。こうして、天皇を中心にした、仏教を基本とするあたらしい国づくりがすすめられます。

今回の特別展会場を第1展示室から順番にあるいていくと、第2展示室から第3展示室へ移動したとき、雰囲気ががらりとかわるのがわかります。銅鐸は姿をけし、銅鏡が重視されます。鉄器があらわれます。そして仏像が出現します。出雲とヤマトはやはり世界がちがいます。『日本書紀』によると、出雲の地は「幽」、すなわち人間の能力をこえた世界、神々や祭祀の世界をつかさどるとされ、ヤマトの地は「顕」、すなわち目にみえる現実世界、政治の世界をつかさどるとされ、出雲とヤマトは、「幽」と「顕」をそれぞれ象徴する場所として重要な役割をになったとされます。

しかしここでは、出雲とヤマトを、地理的・空間的な対比ではなく、歴史的・時間的な関係としてとらえなおす必要があります。すなわち歴史的・時間的にみれば、出雲が先であり、ヤマトが後です。弥生時代には、出雲を中心とする王国があり、それは高度な青銅器文化をもった国でした。その後、古墳時代になるとヤマト王権が成立、あらたな統一国家の建設がすすみます。出雲の時代からヤマトの時代への転換が、すなわち弥生時代から古墳時代への転換です。

出雲地方にある荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡において多数の青銅器が出土しました。そのほとんどに「×」印がきざまれていました。これは、青銅器が製作されたときにきざまれたのではなく、埋納されたときにきざまれたものです。「×」印は、これらの青銅器はこの世では二度とつかわない、つかえないことをしめしています。これらの青銅器の役割はもうおわりました。青銅器はどれも非常に丁寧に埋納されていました。愛情がこめられていました。加茂岩倉遺跡の銅鐸埋納状況(写真2)は、銅鐸の「墓所」にわたしにはみえました。銅鐸は、あの世におくられたのです。

こうして、青銅器文化の時代はおわりました。すなわち出雲王朝の時代はおわり、同時に、ヤマト王朝の時代がはじまりました。出雲王朝は、ヤマト王朝にほろぼされたといってもよいでしょう。

昔の日本人は、死者の鎮魂をかならずおこないました。とくに、ほろぼされた者は祟るから鎮魂しなければなりません。中国大陸でも、後代の王朝が前代の王朝を鎮魂することが代々おこなわれてきました。疫病が流行したり災害がおこったりすると、それは、前代の王朝の祟りであるとかんがえました。したがって、あらたに政権をきずいた王朝は、前代の王朝の鎮魂に力をつくしました。鎮魂は、国家的なおおきな課題でした。ヤマト王朝も、出雲の王・オオクニヌシの鎮魂をおこなわなければなりません。怨霊を封じこめ、祟らないようにしなければなりません。出雲は、青銅器文化を高度に発達させた、西日本をほぼ支配した大国でした。その王を鎮魂するためには特別な神社が必要です。こうして、前代未聞の巨大神社がたてられました。

出雲大社は、オオクニヌシ鎮魂のためにヤマト王朝がたてたのではないだろうか。この「オオクニヌシ鎮魂説」は、哲学者・梅原猛が『葬られた王朝』(注2)で提唱した仮説です。東京国立博物館の今回の特別展でこの仮説を検証することができました。

『日本書紀』でかたられた出雲の国は実在したのであり、それは、西日本をほぼ統一するぐらいの、今までかんがえられていたよりもおおきな国でした。その国を、ヤマト王朝がほろぼしました。そしてその王・オオクニヌシを鎮魂するために出雲大社がたてられました。

その後、ヤマト王朝は政権基盤を盤石なものにしながら、東国への侵略を開始します。全国統一へむけてすすんでいきます。

それでは出雲王朝は、どのようにしてほろんだのでしょうか?

1998年から3年3か月の期間、鳥取市の青谷上寺地遺跡(あおやかみじちいせき)が発掘調査されました(第1次調査、注3)。そこで、100人分以上の人骨が出土、みつかった人骨の一部は埋葬されたものでした。しかしすくなくとも109体分の人骨は、「SD38」と名づけられた溝の中にうちすてられたような状態で出土しました。この人骨群の中から、するどい刃物で傷つけられた骨が110点みつかりました。殺傷されたとかんがえられます。これらの人々は、弥生時代後期後葉(約1800年前)にいきた人々でした。当時の戦争を物語っているのかもしれません。

今回の特別展会場では、「オオクニヌシ鎮魂説」までふみこんだ考察はしていません。それぞれの史料の基礎的な解説があるだけです。しかし仮説をたてて検証するという姿勢をもって展示物(史料)をみていけば、物の背後にある歴史が想像できます。ここまでダイナミックな変動が古代日本にあったとは。おもしろい特別展でした。



< |2 >



▼ 関連記事
インプットと堆積 -「日本人はどこから来たのか?」(Newton 2017.12号)-
弥生人と日本人 - 企画展「砂丘に眠る弥生人 - 山口県土井ヶ浜遺跡の半世紀 -」(国立科学博物館)-
日本の重層文化 - 東北歴史博物館 -
特別展 「蝦夷 - 古代エミシと律令国家 -」(東北歴史博物館)をみる
祭りの背景を想像してみる - 神田祭 -
歴史の大きな流れを漫画でつかむ - 角川まんが学習シリーズ『日本の歴史』-


▼ 注1
日本書紀成立1300年 特別展「出雲と大和」
会期:2020年1月15日(水)~3月8日(日)
会場:東京国立博物館・平成館
特設サイト
※ 2ヵ所をのぞき写真撮影は許可されていません。




▼ 注2:参考文献
梅原猛著『葬られた王朝 -古代出雲の謎を解く-』(新潮文庫)、新潮社、2012年11月1日


▼ 注3:参考サイト
青谷上寺地遺跡展示館


▼ その他の参考文献
東京国立博物館・島根県・奈良県(企画・編集)『日本書紀成立1300年 特別展 出雲と大和』(図録)、島根県・奈良県(発行)、2020年1月15日
瀧音能之監修『最新学説で読み解く 日本の古代史』(TJMOOK)宝島社、2017年3月6日