「主客合一」「絶対矛盾的自己同一」「直観」によって「永遠の世界」にいたります。
NHK 100分 de 名著、今月は、西田幾多郎『善の研究』を解説しています(注1)。講師は批評家の若松栄輔さんです。西田幾多郎(1970〜1945)は日本独自の哲学をきりひらいた著名な哲学者であり、『善の研究』は彼の代表作です。




経験は時間、空間、個人を知るが故に時間、空間、個人以上である、個人あって経験あるのではなく、経験あって個人あるのである。個人的経験とは経験の中において限られし経験の特殊なる一小範囲にすぎない。

西田は、「個人あって経験あるのではなく、経験あって個人あるのである」とのべています。「経験」とは、個から出発して個をこえていこうとすることであり、個をこえた場所でいきることです。個人それぞれがそれぞれの経験をふかめていくのではなく、人類の経験によって個が形成されるとかんがえます。



元来真理は一である。知識においての真理は直に実践上の真理であり、実践上の真理は直に知識においての真理でなければならぬ。深く考える人、真摯なる人は必ず知識と情意との一致を求むる様になる。我々は何を為すべきか、何処に安心すべきかの問題を論ずる前に、先ず天地人生の真相は如何なる者であるか、真の実在とは如何なる者なるかを明にせねばならぬ。

真理は一つであり、それは知識と実践の両方をともなわなければなりません。何をなすべきか、どう安心をえるかの前に、この真の実在をあきらかにします。西田自身は、実践としては座禅をおこない、座禅は、生涯にわたって彼の思索の土壌でした。



真実在は普通に考えられて居る様な冷静なる知識の対象ではない。我々の情意より成り立った者である。即ち単に存在ではなくして意味をもった者である。

「情意」とは「こころ」のはたらきのことであり、容易には言語化できない「おもい」です。「あたま」だけで世界は認識されるのではなく、「こころ」のはたらきと一つになったとき、「真実在」(真理)への扉がひらかれます。



知と愛とは普通には全然相異なった精神作用であると考えられて居る。しかし余はこの二つの精神作用は決して別種の者ではなく、本来同一の精神作用であると考える。しからば如何なる精神作用であるか、一言にて云えば主客合一の作用である。我が物に一致する作用である。

「知る」と「愛する」は、ことなる二つのいとなみのようにみえますが、それらは、自分と対象が一つになろうとするときに ともにうごきはじめます。これが「主客合一の作用」です。この作用があるからこそ、わたしたちは、うつくしい絵画をみて、音楽をきいて感動します。かなしむ他者の姿をみて涙をながします。道端にさく花と自分が一つになり、いのちを花に認識します。ここでのべられていることを別の表現でいうと「無私」ということになります。表層意識の「私」ではない本当の自己が世界の底にふれていこうとする、この状態が西田のいう「善」の世界です。



我々は知識においてまた意志において意識の統一を求め主客の合一を求める、しかし、これはなお半面の統一にすぎない、宗教はこれらの統一の背後における最深の統一を求めるのである、知意未分以前の統一を求めるのである。

ここでの「知識」と「意志」は「自力」に、「宗教」は「他力」におきかえることができます。「自力」は人間の努力のこと、「他力」はおおいなるもののはたらきのことです。真理をもとめようとするとき、「自力」だけでは到達できない さらなる世界があります。「他力」の力をもってこそ、「主客の合一」の奥にある「最深の統一」、「知意未分以前の統一」を経験することになります。「知意未分」とは、わたしたちが個人の意識によって世界を判断し価値づける以前の ありのままの状態のことです。

そして表層意識と深層意識の両方が一つになり「行為」されるとき、「善」への道がひらかれます。



私は何の影響によったかは知らないが、早くから実在は現実そのままのものでなければならない、いわゆる物質の世界という如きものはこれから考えられたものに過ぎないという考を有っていた。

「実在」は現実そのままのものでなければなりません。「実在」を感じるには、世界をありのままに感じなければなりません。哲学の原点とは、何か特別な理論や特定の思想にあるのではなく、わたしたちの日常の直観的な経験にこそあります。気がつかないうちに「実在」をおおってしまっているものがわたしたちの世界観や価値観です。現代人にとっては科学的世界観が常識になっています。



純粋というのは、普通に経験といって居る者もその実は何らかの思想を交えて居るから、毫(ごう)も思慮分別を加えない、真に経験其儘(そのまま)の状態をいうのである。例えば、色を見、音を聞く刹那、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じて居るとかいうような考のないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。

「経験」と「純粋経験」はおなじ意味であり、どこまでも対象をふかくみつめ、直接的に認識することであり、対象の本質にふれることであり、「直接経験」といってもよいです。これが、量的な世界から質的な世界へわたしたちをみちびきます。

そのためには、既存の思想、思慮分別、判断といった「メガネ」をはずして世界をみなければなりません。西田の哲学は「引き算の哲学」といってもよいでしょう。

西田は、この「純粋経験」を「知的直観」「知的直覚」といいかえることがあり、「直観」とは「直に観る」ことです。「直観」を経験しようとするとき、もっともひろく門がひらかれているのは芸術です。『善の研究』でもしばしば芸術に言及しています。うつくしいものにふれることと、おおいなるものを信じることとは同質の経験であり、美の経験とは、人間をこえるものに美を通じてふれようとすることです。

また たとえば日々、料理をつくるとき、掃除をするときなどにも「直観」はひらかれています。絵画や音楽のようには表現されていなくても、日々の生活のなかで「直観」をふかく経験し、体現しています。このようなことを自覚すればいくらでも日常は再発見できます。



過去と未来との矛盾的自己同一的現在として、世界が自己自身を形成するという時我々は何処までも絶対矛盾的自己同一として我々の生死を問うものに対する、即ち唯一なる世界に対するのである。

過去はすぎさり、未来はまだきません。過去と未来が、現在と相反することによって「今」があります。この矛盾的関係をこえた、過去・現在・未来が一つになる「絶対矛盾的自己同一」の世界つまり「唯一なる世界」を、生死を問題にするときにわたしたちは経験します。この「唯一なる世界」は「永遠」ともいえます。










西田は、「主客合一」と「純粋経験」(直観)によって、「絶対矛盾的自己同一」の世界つまり「永遠」の世界にいたることができると説明しています。

わたしたちは、何をなすべきか、どう安心をえるかをかんがえる前に、天地人生の真理(真の実在)をしらなければなりません。

そのためには、知識と実践の両方が必要であり、「あたま」ではなく「こころ」をはたらかせるようにします。表層意識だけでなく潜在意識をひらきます。すると「主客合一の作用」がおこり、主体と客体が一体化します。主体と客体の共鳴がおこるとかんがえるとわかりやすいかもしれません。このときに直観が生じ、感動がうまれます。真理が発見されます。直観は、芸術にふれたときのみならず日常でもはたらきます。これは、一瞬にして全体がひびくといった現象です。なお客体は環境、直観はひらめきといってもよいでしょう。

そして人間の努力をこえた おおいなるはたらき「他力」をもって、さらに奥にある、個人の意識によって判断し価値づける以前の ありのままの状態「最深の統一」に到達します。

これは、既存の思想、思慮分別、判断といった「メガネ」をはずして、どこまでも対象をふかくみつめ、直接的に認識するということであり、対象の本質にふれることであり、「純粋経験」といえます。「経験」とは個をこえていこうとすることであり、個をこえた場所でいきるということです。

これは「無私」あるいは無我無心の境地といってもよいでしょう。成果をあげよう、競争に勝とう、ほめてもらおう、賞をとろうといった目的をもつとかえっていいものがうまれません。独創や創造は決して生じません。このことが理解できない人が現代文明人には非常におおく、むしろ、江戸時代の人々のほうがこのことをよく理解していました。おのれをむなしくすることがもとめられます。

そしてわたしたちがいきるということは生と死を経験することであり、この生死を問題にするときに過去・現在・未来という時間が意識されますが、過去と未来の矛盾をこえて、過去・現在・未来が一つになったときに「絶対矛盾的自己同一」の世界がうまれます。たとえば伝統と創造は一見すると矛盾しますが、実際には、伝統のなかから創造がうまれ、創造が伝統をつくっていきます。その実践の場が現在です。伝統があるとあたらしいことができないというかんがえはあやまりです。あるいは「守破離」ともいい、守と離は、一見すると矛盾しますが、守破離という一連のながれのなかで全体が体系化され、「絶対矛盾的自己同一」があらわれます。

「主格の合一」は世界の空間的な側面、「絶対矛盾的自己同一」は世界の時間的な側面とかんがえるとわかりやすいかもしれません。そしてそのような時空をこえて「直観」がはたらきます。




▼ 注1
NHK Eテレ「100分 de 名著」:西田幾多郎『善の研究』

▼ 参考文献
若松栄輔著『NHK 100分 de 名著』(西田幾多郎『善の研究』)NHK出版、2019年10月
西田幾多郎著『善の研究』(Kindle版)