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日本列島内にも侵略戦争がありました。先住民族・蝦夷は律令国家に征服されました。しかし独自の伝統文化はいまでも息づいています。
特別展 「蝦夷 - 古代エミシと律令国家 -」が東北歴史博物館で開催されています(注1)。1300年ほど昔、古代東北の地には、律令国家の支配に属さない「蝦夷(エミシ)」とよばれる人々がくらしていました。彼らは何者だったのか? 考古学の最新の発掘調査成果と古代史学の研究からせまります。





阿弖流為(アテルイ)


東夷の中に日高見国有り。(略)人となり,勇悍(ゆうかん)なり。是れを総じて蝦夷と曰ふ。(『日本書紀』)


東夷のなかに日高見国(ひたかみのくに)があり、そこは土地が肥えていてとてもひろく、大和政権にとって魅力のある地域でした。大和政権は、そこを征服して領土とすべきであるとかんがえ、7〜9世紀にかけて幾度となく兵を投入しました。律令国家の歴史書には、天皇を中心とする律令国家が蝦夷を征討していく様子が書かれています。

これに対して蝦夷は抵抗し、反乱をくりかえしました。その先頭にたったのが阿弖流為(アテルイ)でした。阿弖流為は、今から1200年ほど前の胆沢(いさわ、現岩手県奥州市)におけるリーダーでした。

平和でゆたかなくらしをまもるために、13年間にわたって阿弖流為らは勇敢にたたかいました。朝廷5万の兵を一時は撃退するなど、その名を都にとどろかせました。

しかし大和朝廷は、坂上田村麻呂を派遣、圧倒的な兵力の前に、阿弖流為はついに降伏しました。

阿弖流為は都に連行され、坂上田村麻呂の助命嘆願にもかかわらず、朝廷によって処刑されました。





第1展示室 律令国家の形成と蝦夷

皇位継承をめぐる争いである壬申の乱(672年)で勝利した天武天皇は強大な権力を手にいれ、それまでの「大王」にかわって「天皇」と称しました。官僚制をはじめとする国家機構を整備し、日本初の鋳造貨幣「富本銭」を発行し、法令整備として「飛鳥浄御原令」(あすかきよみはらりょう)を施行し、天皇を中心とする中央集権国家「律令国家」の建設をすすめました。

大宝元年(701)には藤原京で、律令国家の成立をいわう儀礼が天武天皇のもとで挙行され、天皇が着座する大極殿のまえに官人や新羅の使者が列立して威儀そなわったと『続日本紀』はつたえています。

つぎの元明天皇のもとでは、藤原京の3倍の規模をもつ平城京が造営され、和銅3年(710)に遷都しました。都城そして「大宝律令」という国家運営の基本法典がととのい、天皇を中心とした律令国家が成立しました。

一方、7世紀〜9世紀初めにかけて、大王そして天皇は、蝦夷がすむ土地に進出して国家の領土を拡大し、蝦夷を服属させたうえで公民化する政策を展開しました。





第2展示室 蝦夷の生活と文化

『日本書紀』では、「蝦夷は農耕を知らない野蛮な民」、「毛を着、血を飲み」、「五穀はなく獣の肉を食べて生活している。屋舎は無く深山のなかで樹の根元に住んでいる」としるし、蝦夷の野蛮さを強調していますが、考古資料からは、そうではなかったことがわかります。


蝦夷の地からは、糸をつむぐための紡錘車をはじめ、あむための道具である薦槌や、わずかですが布が出土しています。布製品を蝦夷が身につけていたことが想像できます。


おおくの集落遺跡から、コメ・コムギ・オオムギ・ダイズ・アズキ・ヒエ・アワ・キビなどの穀類が発見されており、農業生活もおこなっていたことがわかります。また出土品からは木製碗などの食器や箸をつかっていたこともわかります。


竪穴住居跡が発見され、煮炊きのためのカマドも付属していました。こうした竪穴住居群が集合してひとつの集落をなしており、文献資料には蝦夷の「村」と書かれています。

農耕
木製の農具だけでなく、鉄製の鋤先など、鉄製品も発見されています。

漁労・製塩
鉄製の釣針・ヤスなどが出土しており、釣業や昆布の採集がおこなわれていました。海に面した製塩遺跡からは製塩窯跡や製塩土器などの塩づくりに関する痕跡が発見されています。

土器
土器の内側をみがき、ススで黒くする小形の器がつくられていました。防水性をたかめ、装飾性をもつとかんがえられます。8世紀後半からは、ロクロ製作技術がとりいれられ、土器の生産技術が向上しました。

製鉄・鍛冶
太平洋沿岸部の蝦夷のなかには、律令国家の技術である製鉄・鍛冶をとりいれた集団もいました。鍛冶関係の資料が8世紀の集落からみつかっています。

馬産・馬具
太平洋側を中心に馬産がおこなわれていました。馬を埋葬した墓や、馬にのるための轡や杏葉などの馬具が出土しています。蝦夷の馬は優良であったため、のちに、貴族たちがきそってかいもとめるようになりました。

交易
蝦夷の地から律令国家へは、ヒグマやアザラシ・アシカの毛皮、鷲や鷹の羽、昆布、馬、コハクなどが献上されました。

律令国家から蝦夷の地へは、革帯・銭貨・馬具・玉類などの装身具、武器類や須恵器などがもたらされました。

墳墓
7〜9世紀にかけて、ちいさな円墳が集合した古墳群がつくられ、古墳文化の影響をこれらはうけていますが、埋葬施設である主体部には板材をうめこんだ棺構造をもつなど、独自の要素がみられます。主体部の構造は、土坑タイプと石積みタイプにわけられ、地域によってかたよりがみられます。





第3展示室 蝦夷と律令国家の軋轢

大化の改新(大化元年(645)からはじまる一連の改革)とともに、大和政権は、蝦夷の地への支配を開始し、その政策として、「城柵」の設置と公民の移配をおこないました。城柵とは、軍事と行政の機能をもつ蝦夷支配の拠点であり、城司として国司が派遣され、その経営基盤として「柵戸(さくこ)」とよばれる移民を移住させました。

郡山遺跡(現宮城県仙台市太白区郡山)は、太平洋側に最初に造営された城柵でした。内外面とも黒色処理されていない、関東地方のものとおなじ特徴をもった土器が出土しており、これらは関東からの移民がもちこんだもであると推定されます。

大和政権は、板東(関東)の公民を柵戸として蝦夷の地へ移住させ、土地の造営や村の経営をやらせました。移民だけの村や蝦夷と移民が雑居した村々ができ、これらを城柵が管轄しました。



仙台 郡山遺跡の位置


神亀元年(724)、あたらしい大規模な城柵である多賀城を造営、国府の機能を郡山から移転し、鎮守府を新設しました。多賀城遺跡からは、兵士の常駐をしめす木簡や、米の支給にかかわる帳簿の漆紙文書・木簡など、軍事的・行政的資料がたくさん出土しています。



多賀城の位置


8世紀中頃になると、大崎平野(現宮城県北部)に、いくつもの城柵とそれにともなう堀や土塁を造営しました。これらは、大崎平野の北辺に西から東へとつらなるように配置され、蝦夷に対する律令国家の防衛線となりました。

8世紀後半になると、これらの北側に、桃生城(ものうじょう)、伊治城(いじじょう)をあらたに造営しました。



桃生城の位置



伊治城の位置


するとついに、蝦夷の不満が爆発します。

宝亀5年(774)7月、蝦夷が蜂起して桃生城を襲撃します。「三十八年戦争」のはじまりです。『続日本紀』によると「西郭」から蝦夷は侵入したとされます。発掘調査の結果、政庁をはじめ、その周辺の建物や住居が焼失したことがあきらかになり、蝦夷の攻撃のはげしさがうかがわれます。

宝亀11年(780)3月には、伊治城において、伊治郡の大領で蝦夷に出自をもつ伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)が、按察使(あぜち、陸奥国守)の紀広純(きのひろずみ)と牡鹿郡大領の道島大楯(みちしまのおおたて)を殺害します。「伊治公呰麻呂の乱」です。伊治公呰麻呂に触発された蝦夷たちは、つぎつぎに城柵を襲撃しながら、蝦夷支配の一大拠点である多賀城をめざします。そして多賀城に火をはなち、政庁内の建物をほぼ全焼させます。

その後、朝廷軍と蝦夷軍との戦闘は規模がおおきくなり、とくに、阿弖流為がひきいる胆沢の蝦夷とは はげしい戦争がくりひろげられます。

すると朝廷は、征夷大将軍として坂上田村麻呂を派遣、その大規模な兵力をまえにして、阿弖流為はついに降参しました。

胆沢の地は平定され、律令国家の支配拠点である城柵がこの地にも建設され、さらに北の地にもつくられ、朝廷の蝦夷支配が北方におよんでいきます。延暦22年(803)に、坂上田村麻呂によって造営された志波城(しわじょう、現盛岡市)は多賀城に匹敵する大規模な城柵でした。



胆沢城の位置



志波城の位置


このように律令国家は、蝦夷に対して軍事攻撃をおこなったのであり、蝦夷社会に壊滅的な影響をあたえました。中央政権は、国家側に服属した蝦夷を諸国に分散させ、勢力を分断する政策をとりました。蝦夷は、全国66ヵ国のうち45ヵ国に移配され、移配先からは、蝦夷の土器に酷似した土器や蕨手刀(わらびてとう)、蝦夷(夷狄、いてき)をあらわす「狄」とかかれた墨書土器がみつかっています。

一方、出羽国においても城柵がつくられていました。天平5年(733)には、出羽柵が秋田にうつされて秋田城となりました。日本最北の城柵であり、出羽国の軍事・行政の中心となりました。律令国家の北進政策がここでもうかがえます。

しかし胆沢城・志波城の造営後に、律令国家の財政は困窮してしまいました。ときの桓武天皇は、蝦夷との戦争を中止することを決定、三十八年戦争は幕をとじました。





第4展示室 蝦夷の末裔による東北支配

三十八年戦争は終結しましたが、その後は、蝦夷同士の対立がおこり、不安定な状態が依然としてつづきました。

こうしたなかで勢力を拡大したのが、俘囚長としての安部氏と清原氏です。俘囚とは、律令国家に服属した蝦夷のことです。

安部氏は、鎮守府胆沢城の在庁官人についていました。鳥海柵(とのみのさく、現岩手県胆沢郡金ケ崎町)は、安部氏の重要な拠点のひとつであったとかんがえられ、墨書土器や豪華な陶器が出土し、安部氏と律令国家のむすびつきがうかがわれます。安部氏はしだいに力をつけ、奥六郡(現岩手市〜奥州市)を支配するようになります。

一方、清原氏は「出羽山北俘囚主」とされ、大鳥井山遺跡(現秋田県横手市)から出土した内耳鉄鍋からは北方との交易、硯からは文書行政、かわらけからは宴会や儀式がおこなわれていたことなどがわかります。

安部氏と清原氏は仏教政策にも力をいれ、鎮守府胆沢城のちかくにあった国見山廃寺は両氏の庇護をうけて五重塔を有する一大寺院となりました。


その後、安部氏は、国府多賀城の管轄する領内にまで勢力をひろげ、律令国家と対立、すると朝廷は、源頼義・義家を派遣、清原氏にも加勢を要請し、安部氏をほろぼしました。「前九年合戦」(永承6年(1051)〜康平5年(1062))です。

その後、出羽国山北三郡を支配していた清原氏には内紛がおこり、源義家がこれを平定しました。「後三年合戦」(永保3年(1083)〜寛治1年(1087年))です。

源義家によってこのときにたすけられた清原清衡(のちの藤原清衡)が、そのご平泉を拠点とし、平泉藤原氏3代にわたる東北支配の礎をきずきました。










大和政権は、律令国家を建設していく過程で、国家にしたがわない東北の人々を辺境の異民族、未開の野蛮人として位置づけ、蝦夷とよびました。

しかし考古学的な発掘調査によると、蝦夷の人々は野蛮人ではなく、東北地方の独自の自然環境に適応してくらすゆたかな人々であったことがわかります。自然資源にめぐまれ、狩猟採集にくわえて農耕もすでにおこなっており、また関東地方との交流もさかんで、文化的にもすぐれていました。

しかし大和政権はこの地に目をつけ、蝦夷を支配し、領土を拡大したいとかんがえ、「城柵」と「柵戸」という戦略をとりました。貢ぎ物を蝦夷にはおさめさせ、禄(国家の品々)を彼らにあたえることで支配を維持しようとしました。

このような大和政権の北進政策に対して蝦夷は抵抗、反乱をおこしますが、けっきょく敗北、律令国家にくみこまれてしまいます。

このように蝦夷とは、東北地方に昔からくらす先住民族であったのであり、対する大和政権は侵略者でした。

わたしはかつて、10年のときを東北地方ですごし、東北の人々の気質を肌で感じていましたが、ようやくその理由がわかりました。歴史をしるとみえてきます。

大和政権そして律令国家を建設した人々は、弥生時代に朝鮮半島からやってきた渡来人の子孫であったとかんがえられます。彼らは稲作農耕民族であり、さらに中国大陸のすすんだ文明を徹底的にとりいれる “文明人” でした。このような文明人に、自然と一体となって素朴な社会生活をいとなんでいた人々が勝てるはずはありませんでした。

渡来人が大陸からもたらした稲作と稲作文化は、西日本そして関東地方までは容易に普及しました。もともとは稲は比較的あたたかい地方の植物であり、寒冷な東北地方では「一粒万倍」とはいかず、したがって稲作文化も簡単にはひろがりませんでした。関東あたりまでの人々は、あたらしい稲作技術をとりいれて「これはいいじゃないか!」とおもいましたが、北方ではそうはいきませんでした。日本列島の地形・自然環境が歴史の大枠をきめています。

こうして東北地方では、先住民族と侵略者という図式がほかの地域よりも鮮明になりました。

先住民族と侵略者という図式は世界各地でみられます。タスマニア島でも、オーストラリア大陸でも、南北アメリカ大陸でも、アフリカ大陸でも。しかしいかなる理由があっても侵略はみとめられません。先住民族の伝統と文化を尊重しなければなりません。

往往にして歴史とは、権力者にとって都合のよいように権力者の立場で書かれます。学校でおしえている歴史もそうです。そこであらためて、先住民族と侵略者という観点から歴史をとらえなおす必要があります。「古代エミシと律令国家」も参考になります。

 

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▼ 注1
東北歴史博物館開館20周年・宮城県多賀城跡調査研究所設立50周年記念
特別展「蝦夷-古代エミシと律令国家-」

会場:東北歴史博物館
会期:2019年9月21日~11月24日
※ 写真撮影は許可されていません。



▼ 参考文献
東北歴史博物館編集・発行『蝦夷 - 古代エミシと律令国家 -』(図録)2019年9月21日


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