オリエントの歴史がわかります。文明の起源と発展について理解できます。
(2019.9.11 更新) 
岡山市立オリエント美術館(注)は、岡山市在住の安原真二郎氏から岡山市に寄贈されたオリエント美術品約2000点を収蔵・展示・研究するために建設され、1979年に開館しました。オリエント専門のすぐれた美術館であり、現地調査、特別展・企画展、市民講座などもおこなっています。

常設展示は以下のとおりです。


第1展示室 狩猟採集から農耕牧畜の社会へ
第2展示室 都市の成立と古代帝国への歩み
第3展示室 ヘレニズムとペルシャ文明
第4展示室 イスラームの時代



第1展示室 狩猟採集から農耕牧畜の社会へ

旧石器時代
今から数百年前、人類は火をつかい、道具をつくり、言葉をはなすようになって、ほかの動物たちとはことなる道をすすみはじめました。

はじめのうちは、野生の動物を野山でつかまえたり、木の実や果実をあつめたり、川や湖・海で貝類や魚類をとったりして食糧にし、土地を移動しながら生活していました。狩猟採集生活です。

当時の代表的な道具は石をたたきわってつくった石器です。石をたたきわるときに、石の芯の部分(石核)をのこしてこまかい破片(剝片)をとりさるとここの展示室に展示されているような石器になります。はじめのうちは、木製の柄に石器をつけて斧にしたりしていました。やがて剝片も利用するようになり、石器の種類もふえて、用途によるつかいわけがはじまりました。

石器以外にも、動物の骨を加工した骨器、植物の蔓や茎をあんだ籠、動物の皮でつくった袋、樹木の枝などもつかわれました。

岡山市立オリエント美術館の「オリエント略年表」によると、紀元前80万年あるいは70万年ころ〜紀元前8500年ころを旧石器時代とよびます。


新石器時代
紀元前8500年ころになると、シリアやメソポタミア北部、イラン西部の山麓地帯で、たがやした大地に種をまいて穀物をそだてることと、家畜をかいならして計画的にふやし、ミルクや肉や毛皮をとることを人々はおぼえました。農耕・牧畜のはじまりです。

ちょうどそのころに石器も改良され、石をたたいてわっただけの石器(旧石器)から、われた破片にみがきをかけて加工した石器(新石器)へ変化します。

「オリエント略年表」によると、紀元前8500年〜前3000年ころを新石器時代とよびます。農耕・牧畜の生活は新石器時代からはじまったということになります。

最初に穀物が栽培されたのはパレスチナ、シリアからイラク北部、イラン西部にかけての地域でした。紀元前8000年ころにコムギが栽培されていたことが確認されています。

紀元前6000年ころには、穀物を貯蔵したり、調理や食器にもちいたりするために土器も焼かれるようになります。

たとえばアナトリア(現トルコ)南西部のハジュラール遺跡からは、穀物の貯蔵や食器につかわれた、あかいジグザグの縞模様が特徴的な土器(紀元前5000年ころ)が出土し、そこでは、数十件の家が密集して集落をなしていたことがしられています。あるいは北シリアからは、青灰色の彩文を意図的にぬりのこして、素地(胎土)のしろい部分を文様にした土器(紀元前4000年ころ)が出土しています。イラン北東部のテペ・ヒッサールの遺跡からは、おおきな角をもつヤギをえがいた土器(紀元前3200年ころ)が出土します。鉄分をおおくふくんだ土を焼くと赤っぽい色になるような、素地(胎土)とは別の色に焼くとなる土を水でといて土器にぬり、動物などの文様をえがいたものを「彩文土器」とよびます。

紀元前5000年ころ、メソポタミアは、城壁や神殿や王宮のある町をつくって「ウバイド文化」の時期にはいります。これは、本格的な都市文明を予告するものであり、北シリアやアナトリア南東部にもこのような文化がひろがります。

新石器時代のもうひとつの特徴は、ヒツジやヤギやウシを家畜としてかいならしたことです。家畜は、物資の運搬のほか、肉やミルクや毛皮をもたらしてくれました。

旧石器時代から新石器時代への移行期には、狩猟・採集をくりかえしているうちに、食糧として効率のよい特定の種類の植物と動物が主食にされるようになったとかんがえられます。オリエントでは、コムギとヒツジがそのような食物であり、それらを安定的に確保しようとして農耕・牧畜の生活様式が発展しました。




第2展示室 都市の成立と古代帝国への歩み

紀元前3200年(あるいは3500年)ころ、メソポタミア南部に最初の都市文明であるシュメール文明が誕生しました。

メソポタミアとは、「川と川のあいだの土地」を意味し、具体的には、ティグリス川とユーフラテス川にはさまれた地域をさします。この地域の人々は土木工事をおこなって、川の水をコントロールして用水路や運河をつくり、ひろい面積の畑をたがやして大量の穀物をつくるようになりました。人々は、ひとつの場所にあつまってくらし、たがいに仕事を分担しあうようになり、こうしていくつかの都市ができていきました。


前期青銅器時代
「オリエント略年表」によると、紀元前3000年ころ〜前2200年ころが前期青銅器時代です。

都市文明がおこったころ、道具の主役も石器から青銅器にかわりつつありました。熱して溶かした銅と錫を粘土でつくった型にながしこみ、ひえてかたまったところで型をはずす技術が発明されました。最初の技術革新です。

もうひとつ重要なのが文字の発明(紀元前3000年ころ)です。文字は、粘土をこねて板状にした粘土板にきざまれました。

たとえば「粘土板文書」(紀元前2300年ころ)をみると、楔に似た形をしているほそながい三角形の「楔形文字」が粘土板にきざみつけられています。家畜や銅製品・織物の数量が長々と書かれており、初期の粘土板文書は財産の数量をしるした台帳ばかりであり、重要な物品の数量を記録しています。

また「粘土釘」(ねんどくぎ)には、神へのねがいごとなどが楔形文字でしるされています。粘土釘は壁面装飾のためにつかわれ、とがったところをレンガの目地にさしこむと、釘の頭の部分が壁一面にならびます。展示されている粘土釘のひとつには、紀元前2000年ころにメソポタミアを支配していたウル第三王朝時代の王がナンシュ女神のために神殿をたてたことがしるされています。

こうして文字の発明によって重要な事柄を記録できるようになり、人々は、先人の教訓や歴史なども文字をとおしてまなべるようになりました。


中期青銅器時代
「オリエント略年表」によると、紀元前2200年ころ〜前1500年ころが中期青銅器時代です。

都市が発達すると、ゆたかな物資をもとめて周辺地域から人々が侵入してくるようになす。

中期青銅器時代の前半にシリアとパレスティナの支配者として記録に登場するのは北方からやってきたアモリ人でした。「アモリ人の土器」は彼らの遺物であり、この杯の上のほうには黒褐色の平行線が何本かひかれており、これは、かなりの速さでロクロをまわして、その上で回転する器に筆をおろしたり、けずりだしたりしてえがかれたものです。アモリ人は、高度な金工技術も身につけ、青銅器をひろく普及させました。

紀元前1900年ころになると古バビロニア王国がメソポタミアを統一し、ハンムラピ王のころに全盛期となり、史上初の法典を整備するなどしました。


後期青銅器時代
「オリエント略年表」によると、紀元前1500年ころ〜前1200年ころが後期青銅器時代です。

北メソポタミアではミタンニ王国がさかえますが、やがて、アナトリアのヒッタイト王国がつよくなります。これらの大国がたがいにならびたち、シリアの領有をあらそいつつも、全般的には強国の力の均衡により平和と安定の時期となりました。

地形的にはメソポタミア平原のつづきである、イラン南西部のスシアーナ地方は、はやくから都市文明の影響がおよび、エラム王国が栄えました。「建築装飾用のガラス棒」(紀元前1250年ころ)は、宗教的な中心都市チョガ・ザンビルにあった神をまつる塔(ジグラット)の装飾でした。純粋なガラス製品や陶器はメソポタミアで発達しました。


初期鉄器時代
「オリエント略年表」によると、紀元前1200年ころからが初期鉄器時代です。

後期青銅器時代、ヒッタイト帝国において、鉄で、道具をつくる技術が開発されました。あらたな技術革新です。しかしこの技術は秘密にされたので他国に伝播することはありませんでした。

その後、ヒッタイト帝国がほろびると鉄器をつくる技術が各地に普及するようになります。鉄器時代のはじまりです。すると戦争でも、鉄の武器をつかうようになります。同時に、家畜としてウマを飼うことも普及し、戦争に軍馬がもちいられるようになります。こうして戦争は、以前とはくらべものにならないほどはげしく大規模なものになりました。歴史は、あらたな段階にはいりました。


アッシリアと新バビロニア
メソポタミア北部からおこったアッシリアは、紀元前626年、南メソポタミアやシリアを強大な軍事力で征服し、イラン西部からエジプトにいたるオリエントの大部分を史上はじめて統一しました。

しかしその後、各地で反乱がおこり、紀元前612年、新バビロニア(メソポタミア)とメディア(イラン)にせめほろぼされます。新バビロニアの王ネブカドネザル二世(在位:紀元前605〜562年)は、パレスティナのユダヤ人をバビロンの都へ連行して労働を強制したことでよくしられています。


アケメネス朝ペルシャ
イラン南西部のファルス地方の領主であったアケメネス家のキュロスは、メディアから独立して、アナトリア、メソポタミア、シリア、エジプトをつぎつぎと征服し、紀元前539年、エジプトからインダス川におよぶ大帝国を建設します。

ペルセポリスの宮殿には、ペルシャの王への捧げものをもっておおくの民族の使節がオリエントの各地からあつまってきた様子が浮き彫りであらわされています。


フェニキア人の活動
フェニキア人は、シリア南部(現在のレバノン)を根拠地にしてたくみに船をあやつりながら貿易をおこなっていました。

彼らによって、エジプトの文字がギリシャ・ローマ世界につたえられ、アルファベットがうまれるきっかけになりました。




第3展示室 ヘレニズムとペルシャ文明

紀元前334年、ギリシャの北隣に位置するマケドニア王国のアレクサンドロスはギリシャ一帯を統一するとともに、いきおいにのってアナトリアへの侵攻をはじめます。そしてアケメネス朝ペルシャをあっけなくほろぼし、インダス川をこえるところまで支配をひろげました。アレクサンドロスは紀元前323年に32歳で病死し、その後、部下の将軍たちによって広大な占領地が分割統治されます。

このことによってオリエントは、政治制度・都市計画・通貨・建築・美術などのあらゆる面で地中海世界からの影響がつよくなりました。ギリシャ(ヘラス)の影響をオリエントがつよくうけたこの現象を「ヘレニズム」(オリエントのヘラス化)とよびます。


(つづく)


▼ 注
岡山市立オリエント美術館
※ 写真撮影は許可されていません。