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岡山市立オリエント美術館 
(平行法で立体視ができます)
オリエントの文化成長と歴史がわかります。文明は、都市文明からはじまり、広域文明へ発展しました。
(2019.11.5 更新) 
岡山市立オリエント美術館(注)は、岡山市在住の安原真二郎氏から岡山市に寄贈されたオリエント美術品約2000点を収蔵・展示・研究するために建設され、1979年に開館しました。オリエント専門のすぐれた美術館であり、現地調査、特別展・企画展、市民講座などもおこなっています。

常設展示は以下のとおりです。


第1展示室 狩猟採集から農耕牧畜の社会へ
第2展示室 都市の成立と古代帝国への歩み
第3展示室 ヘレニズムとペルシャ文明
第4展示室 イスラームの時代



第1展示室 狩猟採集から農耕牧畜の社会へ

旧石器時代
今から数百年前、人類は火をつかい、道具をつくり、言葉をはなすようになって、ほかの動物たちとはことなる道をすすみはじめました。

はじめのうちは、野生の動物を野山でつかまえたり、木の実や果実をあつめたり、川や湖・海で貝類や魚類をとったりして食糧にし、土地を移動しながら生活していました。狩猟採集生活です。

当時の代表的な道具は石をたたきわってつくった石器です。石をたたきわるときに、石の芯の部分(石核)をのこしてこまかい破片(剝片)をとりさると第1展示室に展示されているような石器になります。はじめのうちは、木製の柄に石器をつけて斧にしたりしていました。やがて剝片も利用するようになり、石器の種類もふえて、用途によるつかいわけがはじまりました。

石器以外にも、動物の骨を加工した骨器、植物の蔓や茎をあんだ籠、動物の皮でつくった袋、樹木の枝などもつかわれました。

岡山市立オリエント美術館の「オリエント略年表」によると、紀元前80万年あるいは70万年ころ〜紀元前8500年ころを旧石器時代とよびます。


新石器時代
紀元前8500年ころになると、シリアやメソポタミア北部、イラン西部の山麓地帯で、たがやした大地に種をまいて穀物をそだてることと、家畜をかいならして計画的にふやし、ミルクや肉や毛皮をとることを人々はおぼえました。農耕・牧畜のはじまりです。

ちょうどそのころに石器も改良され、石をたたいてわっただけの石器(旧石器)から、われた破片にみがきをかけて加工した石器(新石器)へ変化します。

「オリエント略年表」によると、紀元前8500年〜前3000年ころを新石器時代とよびます。農耕・牧畜の生活は新石器時代からはじまったということになります。

最初に穀物が栽培されたのはパレスチナ、シリアからイラク北部、イラン西部にかけての地域でした。紀元前8000年ころにコムギが栽培されていたことが確認されています。

紀元前6000年ころには、穀物を貯蔵したり、調理や食器にもちいたりするために土器もやかれるようになります。

たとえばアナトリア(現トルコ)南西部のハジュラール遺跡からは、穀物の貯蔵や食器につかわれた、あかいジグザグの縞模様が特徴的な土器(紀元前5000年ころ)が出土し、そこでは、数十件の家が密集して集落をなしていたことがしられています。あるいは北シリアからは、青灰色の彩文を意図的にぬりのこして、素地(胎土)のしろい部分を文様にした土器(紀元前4000年ころ)が出土しています。イラン北東部のテペ・ヒッサールの遺跡からは、おおきな角をもつヤギをえがいた土器(紀元前3200年ころ)が出土します。鉄分をおおくふくんだ土をやくと赤っぽい色になるような、素地(胎土)とは別の色に焼くとなる土を水でといて土器にぬり、動物などの文様をえがいたものを「彩文土器」とよびます。

紀元前5000年ころ、メソポタミアは、城壁や神殿や王宮のある町をつくってウバイド文化の時期にはいります。これは、本格的な都市文明を予告するものであり、北シリアやアナトリア南東部にもこのような文化がひろがります。

新石器時代のもうひとつの特徴は、ヒツジやヤギやウシを家畜としてかいならしたことです。家畜は、物資の運搬のほか、肉やミルクや毛皮をもたらしてくれました。

旧石器時代から新石器時代への移行期には、狩猟・採集をくりかえしているうちに、食糧として効率のよい特定の種類の植物と動物が主食にされるようになったとかんがえられます。オリエントでは、コムギとヒツジがそのような食物であり、それらを安定的に確保しようとして農耕・牧畜の生活様式が発展しました。





第2展示室 都市の成立と古代帝国への歩み

紀元前3200年(あるいは3500年)ころメソポタミア南部に、最初の文明(都市文明)であるシュメール文明が誕生します。

メソポタミアとは、「川と川のあいだの土地」を意味し、具体的には、ティグリス川とユーフラテス川にはさまれた地域をさします。この地域の人々は土木工事をおこなって、川の水をコントロールして用水路や運河をつくり、ひろい面積の畑をたがやして大量の穀物をつくるようになりました。人々は、ひとつの場所にあつまってくらし、たがいに仕事を分担しあうようになり、こうしていくつかの都市ができていきました。


前期青銅器時代
「オリエント略年表」によると、紀元前3000年ころ〜前2200年ころが前期青銅器時代です。

都市文明がおこったころ、道具の主役も石器から青銅器にかわりつつありました。熱して溶かした銅と錫を粘土でつくった型にながしこみ、ひえてかたまったところで型をはずす技術が発明されました。最初の技術革新です。

もうひとつ重要なのが文字の発明(紀元前3000年ころ)です。文字は、粘土をこねて板状にした粘土板にきざまれました。

たとえば「粘土板文書」(紀元前2300年ころ)をみると、楔に似た形をしているほそながい三角形の「楔形文字」が粘土板にきざみつけられています。家畜や銅製品・織物の数量が長々と書かれており、初期の粘土板文書は財産の数量をしるした台帳ばかりであり、重要な物品の数量を記録しています。

また「粘土釘」(ねんどくぎ)には、神へのねがいごとなどが楔形文字でしるされています。粘土釘は壁面装飾のためにつかわれ、とがったところをレンガの目地にさしこむと、釘の頭の部分が壁一面にならびます。展示されている粘土釘のひとつには、紀元前2000年ころにメソポタミアを支配していたウル第三王朝時代の王がナンシュ女神のために神殿をたてたことがしるされています。

こうして文字の発明によって重要な事柄を記録できるようになり、人々は、先人の教訓や歴史なども文字をとおしてまなべるようになりました。


中期青銅器時代
「オリエント略年表」によると、紀元前2200年ころ〜前1500年ころが中期青銅器時代です。

都市が発達すると、ゆたかな物資をもとめて周辺地域から人々が侵入してくるようになります。

中期青銅器時代の前半に、シリアとパレスティナの支配者として記録に登場するのは北方からやってきたアモリ人です。「アモリ人の土器」は彼らの遺物であり、この杯の上のほうには黒褐色の平行線が何本かひかれており、これは、かなりの速さでロクロをまわして、その上で回転する器に筆をおろしたり、けずりだしたりしてえがかれたものです。アモリ人は、高度な金工技術も身につけ、青銅器をひろく普及させました。

紀元前1900年ころになると古バビロニア王国がメソポタミアを統一し、ハンムラピ王のころに全盛期となり、史上初の法典を整備するなどします。


後期青銅器時代
「オリエント略年表」によると、紀元前1500年ころ〜前1200年ころが後期青銅器時代です。

北メソポタミアではミタンニ王国がさかえますが、やがて、アナトリアのヒッタイト王国がつよくなります。これらの大国がたがいにならびたち、シリアの領有をあらそいつつも、全般的には強国の力の均衡により平和と安定の時期となります。

地形的にはメソポタミア平原のつづきである、イラン南西部のスシアーナ地方は、はやくから都市文明の影響がおよび、エラム王国がさかえます。「建築装飾用のガラス棒」(紀元前1250年ころ)は、宗教的な中心都市チョガ・ザンビルにあった神をまつる塔(ジグラット)の装飾でした。純粋なガラス製品や陶器はメソポタミアで発達しました。


初期鉄器時代
「オリエント略年表」によると、紀元前1200年ころからが初期鉄器時代です。

後期青銅器時代、ヒッタイト帝国において、鉄で、道具をつくる技術が開発されます。あらたな技術革新です。しかしこの技術は秘密にされたので他国に伝播することはありませんでした。

その後、ヒッタイト帝国がほろびると鉄器をつくる技術が各地に普及するようになります。鉄器時代のはじまりです。すると戦争でも、鉄の武器をつかうようになります。同時に、家畜としてウマを飼うことも普及し、戦争に軍馬がもちいられるようになります。こうして戦争は、以前とはくらべものにならないほどはげしく大規模なものになっていきます。歴史は、あらたな段階にはいります。


アッシリアと新バビロニア
メソポタミア北部からおこったアッシリアは、紀元前626年、南メソポタミアやシリアを強大な軍事力で征服し、イラン西部からエジプトにいたるオリエントの大部分を史上はじめて統一します。

しかしその後、各地で反乱がおこり、紀元前612年、新バビロニア(メソポタミア)とメディア(イラン)にせめほろぼされます。新バビロニアの王ネブカドネザル二世(在位:紀元前605〜562年)は、パレスティナのユダヤ人をバビロンの都へ連行して労働を強制したことでよくしられています。


アケメネス朝ペルシャ
イラン南西部のファルス地方の領主であったアケメネス家のキュロスは、メディアから独立して、アナトリア、メソポタミア、シリア、エジプトをつぎつぎと征服し、紀元前539年、エジプトからインダス川におよぶ大帝国を建設します。

ペルセポリスの宮殿には、ペルシャの王への捧げものをもっておおくの民族の使節がオリエントの各地からあつまってきた様子が浮き彫りであらわされています。


フェニキア人の活動
フェニキア人は、シリア南部(現在のレバノン)を根拠地にしてたくみに船をあやつりながら貿易をおこなっていました。

彼らによって、エジプトの文字がギリシャ・ローマ世界につたえられ、アルファベットがうまれるきっかけになりました。





第3展示室 ヘレニズムとペルシャ文明

紀元前334年、ギリシャの北隣に位置するマケドニア王国のアレクサンドロスはギリシャ一帯を統一すると、いきおいにのってアナトリアへの侵攻をはじめます。そしてアケメネス朝ペルシャをあっけなくほろぼし、インダス川をこえるところまで支配をひろげました。アレクサンドロスは紀元前323年に32歳で病死しましたが、その後、部下の将軍たちによって広大な占領地が分割統治されます。

このことによってオリエントは、政治制度・都市計画・通貨・建築・美術などのあらゆる面で地中海世界からつよい影響をうけることになります。ギリシャ(ヘラス)の影響をオリエントがうけたこの現象を「ヘレニズム」(オリエントのヘラス化)とよびます。

しかしやがて、イラン人が中心になって独自の道をふたたびきりひらきます。パルティア王国そしてササン朝ペルシャの時代になります。一方、紀元前1世紀にはローマが、ヘレニズム諸国を吸収して地中海沿岸を統一、パルティア王国そしてササン朝ペルシャと衝突をくりかえすようになります。地中海世界とイラン世界は、ユーフラテス川を境にして個別に文化をきずいていきます。この時期は、宗教が発達した時代でもあり、イランでは、伝統的なゾロアスター教がさかんになり、一方、ローマとローマに属したシリアやエジプトではキリスト教が信仰されました。 

パルティア王国(紀元前250年ころ〜紀元後224年)とは、ギリシャ系のセレウコス朝から独立したイラン系遊牧民の支配する国家です。そして紀元後226年には、イラン南西部のファルス地方から、イラン人のなかの直接の子孫にあたる部族が勢力をえて、パルティア王国をたおしてササン朝ペルシャをひらきます。ササン朝の時代には、非常に高度な技術によって製作された織物や貴金属品・ガラス器などの工芸品が多数うみだされ、古代イラン文化は頂点に達します。たとえば「銀製十二曲長杯」は、12のおれまがりがついた複雑な形をうえからみるとしており、独自性をもったたかい文化が発達していたことをしめしています。

一方、ローマが地中海を統一してまもなくのころ、ユダヤ民族の宗教からわかれて、イエスが、キリスト教を創始し、キリスト教はその後、ローマ帝国の全土にひろがり、紀元後4世紀には国家公認の唯一の宗教とさだめられました。そしてやがてローマは東西に分裂、東ローマはビザンティン帝国となります。

岡山市立オリエント美術館1階展示室の最後のコーナーから中央ホールにかけてはローマ・ビザンティン時代にシリアでつくられた彫刻とモザイクが展示されています。シリア砂漠のオアシスであったパルミュラやメンビジュ(古代名ヒエラポリス)などの都市は中継貿易でさかえ、大規模な共同墓地もつくったので、そこからは、石製の墓碑や多数の副葬品が発掘されています。また教会堂のような巨大な公共施設では、建物の床を装飾するのにモザイクがよくつかわれました。ヘレニズムがみられます。





第4展示室 イスラームの時代

ササン朝ペルシャとビザンティン帝国が戦いにあけくれていたころ、アラビア半島からあらたな歴史がはじまります。

メッカの商人の息子であったムハンマド(マホメットのことをアラビア語ではムハンマドと発音)はユダヤ教とキリスト教を批判し、イスラーム(イスラムのことをアラビア語ではイスラームと発音)とよばれる宗教をはじめます。ムハンマドは、キリスト教は、神と人間に双方の性質をキリストにみとめるようになったことを批判し、あくまでも自分は人間であって、神(アッラー)はただひとりだとし、さらに厳格な一神教をとなえます。

神の言葉としてムハンマドがつたえた教えはコーランとよばれる書物にアラビア語で記録され、各地にひろめられます。

紀元後622年、ムハンマドは、メディナの町へ迫害をうけてのがれますが、そこでおおくの支持者をえて、迫害者たちをたおし、アラビア半島をたちまち統一します。イスラームは各地で、それまでの社会に不満をもっていたおおくの人々に熱狂的にうけいれられます。

ムハンマドの地位と役割は、彼に親しかった人が代理(カリフ)としてしばらくはひきつぎますが、やがて、シリアのダマスクスのウマイヤ家に支持があつまります。そして紀元後661年、4代目カリフであったアリーが暗殺されると、ウマイヤ朝がはじまります。ウマイヤ朝は、イランとメソポタミアをおさめていたササン朝ペルシャをほろぼし、ビザンティン帝国から、シリア・エジプト・北アフリカ・スペインをうばいとります。

紀元後750年になると、ウマイヤ朝は、アリーの子孫が正当な後継者だとする一派にたおされます。しかし実権は、アッバース家がにぎって、イラクのバグダードを首都にして支配をかため、アッバース朝をひらきます。アリーの党派はシーア派(イスラーム内の少数派)となり、アッバース朝のカリフがひきいるスンナ派と対立します。

アッバース朝の時代には、イスラーム風の美術工芸が確立し、独自の学問や医学もさかんになります。

その後、中央アジアからトルコ民族が移動してきて、セルジューク王朝(紀元後1038〜1194年)をひらいて実権をにぎり、アッバース朝のカリフは名目的な存在になります。

紀元後1258年になると、フビライ(モンゴル帝国の第5代皇帝、また中国・元朝の初代皇帝)の弟フラグがバグダードを占領し、アッバース朝のカリフを殺害、イル・ハン国(〜紀元後1353年)をおこします。

イル・ハン国の滅亡後は、中央アジア出身のティムールが、ペルシャ湾からインド北部にいたるティムール帝国(紀元後1370〜1507年)を建設します。

紀元後1299年、アナトリアのトルコ人がオスマン朝をたて、エジプトのマムルーク朝や北アフリカを征服し、ビザンティン帝国もほろぼし、イラン以東をのぞくイスラーム圏の大部分を支配します。

イランでは、サファヴィ朝(紀元後1501〜1736年)がおこり、オスマン・トルコに対抗してシーア派の教義を採用します。

またインドは、イスラーム系のムガル朝に統一されます。











以上のように、オリエントでは、紀元前8500年ころに農耕・牧畜がはじまり、紀元前5000年ころには、都市文明を予告するウバイド文化がうまれ、紀元前3200年(あるいは3500年)ころにはメソポタミア南部で、都市文明(シュメール文明)が誕生しました。

都市文明がおこったころ、道具の主役も石器から青銅器にかわるという技術革新がおこり、また文字が発明され、おおきな神殿もつくられるようになりました。

しかしその後、都市国家間の対立がおこって、つよい都市国家がよわい都市国家を征服するようになり、紀元前1900年ころには古バビロニア王国が成立します。

その後、古代帝国の興亡がくりかえされ、ヘレニズムそしてペルシャ文明の時代が到来します。

しかし7世紀になると、アラビア半島でムハンマドがイスラームを創始し、それは、またたく間に周辺地域にもひろまり、イスラーム文明圏を形成するにいたります。イスラームの教義にもとづいて広大な地域がひとつにまとまったことで通商が活発になり、独自の学問・文化がいちじるしく発達しました。

岡山市立オリエント美術館を、第1展示室からゆっくりあるいていけばオリエントのこのような壮大な歴史を追体験できます。展示されている工芸品の数々をみていけば、オリエント文化が次第に成長し、イスラーム文明に発展していく様子を実感できます。

あるいは〈自然社会→都市国家→領域国家〉、〈ユダヤ教→キリスト教→イスラーム教〉、〈都市文明→広域文明〉といった大局的な歴史の流れもわかります。それぞれの時代における、技術革新・経済発展・国家統治・新興宗教に注目すると文化成長と歴史がよりよくみえてくるでしょう。

他方で、オリエントとヨーロッパはしばしば対立してきた歴史があり、イスラーム文明とヨーロッパ文明の衝突は根がふかいこともわかります。ヨーロッパ文明の一角をなすアメリカ合衆国とイスラーム勢力との対立を理解するには、オリエントの歴史をしる必要があります。そうでないと判断をあやまります。

しかしたとえばこの美術館にいってみれば、イスラーム文明もヨーロッパ文明もともにすぐれているのであって優劣をつけることはできず、それぞれのすばらしさ、個性をみとめることができます。

日本人にとって、中国やヨーロッパなどにくらべてオリエントはなじみがうすく、あまりよく理解できていないのが一般的ですが、ここにいけば、オリエントについて体験的に理解をふかめることができます。





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▼ 注
岡山市立オリエント美術館
※ 写真撮影は許可されていません。



▼ 参考文献
岡山市立オリエント美術館編集・発行『岡山市立オリエント美術館 総合案内』1992年10月10日


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