類比法をつかって、生物と地球の世界を探究しています。空間即時間、〈主体-環境〉系の観点が重要です。この世界の、社会は空間的側面、歴史は時間的側面であり、世界には、自己完結性の原理があります。
今西錦司著『生物の世界』(講談社文庫)は、「相似と相異」「構造について」「環境について」「社会について」「歴史について」の5章から構成されています。






1.相似と相異

相似と相異ということは、もとは一つのものから分かれたものの間に、もともとから備わった一つの関係であって、子は親に似ているといえばどこまでも似ているけれども、また異なっているといえばどこまでも異なっているといえるように、そういったものの間の関係は、似ているのも当然だし、異なっているのもまた当然だということになる。そしてこの世界を構成しているすべてのものが、もと一つのものから分化発展したものであるというのであれば、それらのものの間には、当然またこの関係が成り立っていなければならないと思う。


わたしたちが生きている世界は実にいろいろなものからなりたっており、おなじものは厳密にはありません。相異ということだけをみていけば、世界中のものは異なったものばかりということになります。

しかし異なるということは似ているということがあってはじめてその意味をもつのであり、似ているものがあってこそ異なるものが区別され、似ていることがあるからこそ異なるところがあきらかになるわけです。

すなわちわたしたちは、相似たところと相異なるところを同時にみとめており、似ているとか異なるとかいうことを直観的に認識できる能力をもっているのであり、それは、わたしたちに本来そなわった先験的な性質であるといえます。

わたしたちが生きている世界(宇宙あるいは地球)はもと一つのものから分化・生成したものであり、その構造も機能も、あるいは生物も無生物も、植物も動物も、もとをただせばおなじ一つのものにみな由来します。世界を構成しているいろいろなものが何らかの関係でむすばれ、多様なもののあいだに根本的な関係がみとめられるということの根拠がここにあります。

わたしたち人間も、この世界の分化・生成を身をもって経験してきたものであり、あらゆるもののあいだにそなわった相似と相異の関係をわたしたちが認識できるのは、わたしたち自身にそなわった遺伝的な素質であるといってもよいでしょう。

こうして、この世界のいろいろなものの関係は類縁ということによって整理され、類縁とは、いわば血のつながりであり、土のつながりであり、生成をめぐる歴史的な遠近関係を意味するとともに、社会的な遠近関係をも意味します。この世界のあらゆるものがもと一つのものから分化・生成してきたということがいろいろなものが類縁を通じてむすばれているゆえんです。


人間は人間の世界を持ち、猿は猿の世界を持ち、アミーバはアミーバの世界を持ち、また植物は植物の世界を持つものであっても、猿の世界はアミーバや植物の世界よりもわれわれ人間の世界に近く、またそれらを引っくるめた生物の世界の方が、無生物の世界よりもわれわれの世界に近いといい得るのである。そしてここにわれわれに許された類推の根拠があり、それと同時にまたその類推の可能限界ということが考えられる。


相似と相異という観点から、たとえば人間と猿とアミーバをくらべてみると、人間と猿は似ており、人間とアミーバは異なります。人間と猿は、人間とアミーバにくらべると似ていて、人間は猿にちかいです。あるいは人間と猿とアミーバと植物をくらべてみると、人間と猿とアミーバはちかく、人間と植物はとおいということになります。あるいは、人間と猿とアミーバと植物と岩石をくらべてみると、人間と猿とアミーバと植物はちかく、人間と岩石はとおい関係にあるということになります。

このように、類縁の認識が成立するところに類推が可能になる根拠があり、類推とは、その本質において、わたしたちがものの類縁関係を認識したことに対するわたしたちの主体的反応のあらわれにほかなりません。

また人間の認識している世界は、アミーバが認識している世界よりも、猿が認識している世界に似ていることも類推できます。類縁関係のちかいもの同士は、それのとおいものよりも、よりちかい、あるいはより似た世界をもっているのであり、それは、おたがいの認識している世界が似ているということです。

わたしたち人間は、人間的立場にあってほかの生物をしろうとし、そのすまう世界をうかがおうとし、より正確な類縁の把握によってわたしたち人間による類推を合理的ならしめようとしています。類推の合理化こそあたらしい生物学のよりどころです。





2.構造と機能

この世界は、実にいろいろなものからなりたっていますが、わたしたちが、獣は獣として、鳥は鳥として、魚は魚として、蝶は蝶として認識できるのは、獣としての形を獣はもち、鳥としての形を鳥はもち、生物の外形上の相似と相異を認識できるからです。外形上の相似と相異に立脚して生物を分類し、それらの類縁関係をあきらかにしたところに分類学が成立しました。

しかし生物は、外形があるだけではなく、内部形態ももっており、外部形態と内部形態が一つになって生物の身体をくみたてているのであり、より本質的には、それぞれの生物はそれぞれに構造をもっているということができます。

生物と無生物の区別も、みかけにおいてではなく、構造の問題としてとらえるべきであり、みかけの相異は構造の相異を反映したものであることをしらなければなりません。

そしてこのような生物の構造は生物の生長によってもたらされました。


はじめからでき上がった生物の構造などというものはなくて、生物の構造とは生成発展したものである、それがすなわち生物の生長であり、生長するということはすなわち生きているということにほかならないということになって、結局生物の形といい生物の構造というも、それらは生きた生物をはなれては考えられない。


生物の体は細胞からできており、細胞は生物の構造の単位であり、細胞からできた構造をもつもののみが生物であるといえます。

多細胞生物にあっては、実にいろいろな種類の細胞がありますが、それらは無秩序に集合しているのではなく、それらの巧妙な配置によって生物の構造ができています。

しかもその構造は、一つの細胞から生成・発展することによって成立したのであり、生物の構造も生長したものであり、生物という以上は、その具体的な存在のありかたとして生きているということをつねに前提としなければなりません。

たとえば動物がとんだり およいだりするのはその動物が生きているからであり、生きた動物を論ずるのに構造だけでは論じつくされず、構造とともに機能もかんがえなければなりません。とんだり およいだりする、さまざまな機能を発揮しえる構造をもっていてはじめて生きた生物がなりたつのであり、構造と機能は別々に存在しているのではなく、構造がすなわち機能であり、機能がすなわち構造であり、構造と機能の相即が生体存立の根本原理になっています。

生物が、一個の細胞から生成・発展した多細胞の統合体であるということは、生物が先にあったのでも、細胞が先にあったのでもなく、生物すなわち細胞のあつまりであり、細胞のあつまりすなわち生物として生成・発展したということであり、それが生物の生長ということであるならば、成長とは、構造的であると同時に機能的な生成・発展であったといえます。

生物とその細胞の関係は、こうした構造的機能的な生成・発展をとげる一つの統合体における全体と部分の関係であり、生物とは、このような有機的統合体であり、生物のあらわすこの有機的統合作用の持続が生命の持続です。

このように、生物の身体をはなれたところに生物の生命があるのでもなければ、生物の生命をはなれたところに生物の身体があるわけでもなく、身体的即生命的、生命的即身体的というのが生きた生物のありかたです。ここには、構造的即機能的、機能的即構造的という生体存立の根本原則が反映しています。

それでは構造と機能の相即がなぜ生体存立の根本原則なのでしょうか?


われわれの生きている世界というものは空間と時間との合一された世界である。実のところわれわれはそれ以外の世界というものを知らぬのである。


生物が、構造的即機能的な存在であり、身体的即生命的な存在でなければならないゆえんは、この世界が、空間的即時間的な世界であるからです。空間的即時間的、時間的即空間的であることはこの世界の構成原理であり、これを反映して、構造的即機能的であり、身体的即生命的であるというのが生物の存在様式になっているわけです。

空間的即時間的であるということが世界の構成原理である以上、その存在が構造的即機能的でなければならないのは生物にかぎったことではありません。空間的即時間的であるということは世界を構成するあらゆるものの存在原理であり、この世界は全体として、構造的即機能的な世界になっているといえます。

相異に着眼するならば、人間・動物・植物・無生物はそれぞれ異なったものですが、共通点に着眼するならば、これらはすべてこの世界の構成要素であり、おなじ存立原理によってこの世界に存在します。

こうしてこの世界は、空間的即時間的な存立原理をもつ構造的即機能的な世界であり、身体的即生命的であるとともに、物質的即生命的でもあると解釈できます。生命を、生物に限定してかんがえなければならない根拠はありません。生命といっても、人間的生命、動物的生命、植物的生命、無生物的生命というように一様なものではなく、相異はありますが、ものの存するところにはかならず生命があるとかんがえたほうがよいでしょう。





3.生物と環境

生物が生きていくためには、その外界あるいは環境から食物をまずとりいれねばなりません。生物は、環境をはなれては存在しえず、環境をも包括したところの一つの体系をかんがえることによって、生物というものの具体的な存在のあり方が理解できます。


生物がさきでも環境がさきでもない。環境なくして生物の存在が考えられないとともにまた生物の存在を予想せずして環境というものだけを考えることもできないといったものが、すなわちわれわれの世界でなければならないのである。


環境というものが先に存在していて、そこに生物が発生してきたのではなく、生物と環境は、もと一つのものから分化・生成したきたものであり、生物と環境はもともとは同質のものでした。

生物は、環境から食物をとりいれ同化させて生きており、生物が、環境のなかに食物をみとめたときに同化の端緒があり、それは環境の生物化の第一歩であり、環境は生物の延長であるとみなすことができます。

生物は、生活するのに必要なものをまず認識し、それを自己の延長として感じます。生活に必要な範囲の外界はつねに認識され同化され、それ以外の外界は存在しないのにもひとしいです。その認識され同化された範囲内がその生物の環境であり、つまりその生物が生活する場であり、その生物の世界です。

このように、生物と環境を一つにしたものが具体的な本当の生物の姿なのであり、それが生物というものの成立している体系です。個体内に束縛されているとされてきた生命を解放して、これを、世界にひろがるものとみなしたほうがよいでしょう。

またこの世界は一つであってもいろいろな生物がいて、いろいろの生物によってそれぞれに環境の認識され方がことなるということは、すまう環境がことなるということであり、それぞれにそのすんでいる世界がことなることを意味します。

進化論的にみれば、進化の過程において、生物は、みずからの環境を拡大するようにすすみ、みずからの生活する世界をひろげるようにすすんだのであり、環境の拡大とは認識する世界の拡大でありました。


環境といい世界というのも要するに自己の延長であるとすれば、生物の統合性とはすなわち自己の統制であり支配である。われわれのように神経中枢の発達したものであれば、そこにわれわれの意識の中心というものがあって、それがまたわれわれの行動とか生命とかの中心を代表するものでもあろうから、われわれの場合ならばこの統合性ということがただちに自主性ということであり、あるいは主体性ということであるといってももちろん差支えのあろうはずはないのである。



人間のような中枢や感覚器官が発達していない生物でさえ、食物をとるべきときにとり、敵からさけるべきときにさけているということは、食物や敵を主体的にみとめているということであり、これは主体性のあらわれです。

そしてこの主体性こそは、生物が生物としてこの世界にあらわれたはじめから生物にそなわっていた性格であって、この主体性のなかに、このなかからやがて意識とか精神とかいうものの発達するべき源もひそんでいました。

生物の生活とは、環境を同化することであり、その生物独自の世界を支配することであり、それは、生物に本来そなわった主体性の発展ということです。主体性も全体のもつ一つの性格であり、生物は全体的なものゆえにまた主体的なものです。

このように、生物と環境は別々の存在ではなく、もと一つのものから分化・発展した一つの体系におけることなる側面にすぎず、体系というものは、ひろい意味では世界全体が一つの体系ですが、一匹一匹の生物が、それぞれの世界の中心をなしているという意味からいえば、その生物とその環境でやはり一つの体系をつくっているといえます。

こうした、生物と環境の交互作用によってなりたった体系において、環境は、物質または物質を代表するものというように一応かんがえてもよく、だからわれわれの身体までが環境の延長とみなしえるわけであり、これに対して、生物の方は生命または精神を代表する側にあるものであり、環境を、生物の延長とみることは環境の生命化ということになります。生物は、環境に一方的に支配されてきたのではなく、主体的に環境にたえずはたらきかけ、環境を支配下におこうとして努力しているものとかんがえてもよいでしょう。





4.生物の社会

構造というものは同じ力をもったものがお互いに働き合うことによって生ずる関係である。関係である以上単独では意味をなさないということになって、相似たものの存在するゆえんが構造と結びつき、また関係といい構造という以上、次にはこれらの相似たものの相対的な位置がおのずと問題になってくるであろう。


相似たものが存在するというところに世界構造の原理がふくまれており、この世界が混沌化しないで構造をもつということは、この世界を形成しているいろいろなもののあいだに一種の平衡がたもたれているからです。平衡を、力のつりあいというように解すれば、つりあう力はおなじ種類の力でなければならず、それは、均衡のとれたはたらきあい、すなわち交互作用の一つの状態であるといえます。

このような前提のもとで生物の社会についてみてみましょう。


同種の個体が血縁的地縁的関係によって結ばれているということが、具体的には同種の個体が同じ形態を具え、同じ機能をもって、同じ場所に同じような生活を営んでいるということにほかならない。生物において形態が違うということは、棲む場所が違うことであり、その生活内容が違うことでなければならぬ。


生物の形態に生活内容をふくませた場合にはこれを「生活形」とよび、おなじ種類の個体同士というのは、血縁的地縁的関係のもとにむすばれた生活形を同じゅうする生物であるということができます。

同種の個体の分布をしらべてみると、どんな生物にも一定の分布地域というものがあって、ちょうど一個の生物にその必要とする生活空間があるごとく、種というものにもまた種の生活様式といったものがみとめられます。

同種の個体があつまっているのは、その共同生活のうちに彼らのもっとも安定し、保証された生活がみいだされるからであり、そこに、彼らの世界というものがつくられるからです。その世界が、とりもなおさず種というものの世界であり、この世界の一環をなす体系です。もし、生物の世界に「社会」あるいは「社会生活」という言葉をあてはめるとすれば、種の世界なり、同種の個体の共同生活なりにまずあてはまります。

種というものは、そのなかで個体の繁殖をし、また営養をとる一つの共同生活の場であり、そのかぎりにおいては社会というものを意味するものがふくまれていて、この社会性は、空間的構造的一面を反映した、この世界を形づくるあらゆるものにやどっている根本的性格です。生物の社会とは、そのなかで個体が繁殖し営養をとるところのものであっても、社会の空間的構造的性格は、繁殖よりも営養の方にどちらかというとふかい関連をしめします。

それにしてもそれぞれの種において、それぞれの種の分布地域がだいたいきまっているのはなぜでしょうか?


いろいろな生物が同一地域内に共存しているのが認められるといっても、それがそれぞれに生活形の異なった、生活内容の異なった、しかしてその生活の場の異なったもの同士であるならば、共存といっても実はその生活空間が異なるのであり、もっとわかりやすい言葉を用うるとすれば、要するに同一地域といっても、その地域を棲み分けることによって、いわばお互いの間の縄張り協定がすでにでき上がっているものというようにも考えられる。


このような、「棲み分け」をせざるをえないような社会のことを生物の「同位社会」とよびます。これは、生物の個々の社会のよりあつまりからなる一つの構造であり、一つの共同社会です。それを構成するおのおのの社会はおたがいに相対立し相いれないものではありますが、他の社会を、みずからの外殻とすることによっておたがいの平衡をたもち、みずからの社会としての機構をまっとうし、それらの社会はおたがいに相補的です。

生物の棲み分けは、環境に即応した場合にはしばしば見事な帯状の配列となってあらわれます。植物には、もっともしばしば模範的な帯状の棲み分けがみとめられます。あるいは渓流や海岸などにすむ動物、水生動物にも帯状の棲み分けが顕著にみられます。海の底に棲む動物にもよくみられます。また昼と夜、春・夏・秋といった季節によって、同一場所を時間的に棲み分けることもよく観察されます。

このように生物の世界は、(1)個体、(2)個体のあつまりからなる社会、(3)社会のあつまりからなる同位社会といったものが、同一の原理に立脚した体系要素となってつくりあげられています。これらは、生物の世界における部分と全体の関係をあらわし、またおたがいに次元を異にした体系要素となっています。

たとえば渓流の底の一つの石に棲んでいる昆虫たちは、それぞれの種類が一つの同位社会の構成単位となるような社会に属し、それぞれの社会は、それぞれの同位社会に属しています。

しかし一方で彼らは、同一場所をおたがいに棲み分けた一つの生活形共同体を全体としてはつくっているとみることもできます。これは、一次的な同位社会を基礎としてなりたつ一つの構造であり、このような社会構造を「同位複合社会」とよびます。たとえば昆虫のよってつくる同位複合社会のことを昆虫共同体といってもよいですが、生物の社会構造の立場からいえば、昆虫の同位複合社会といったほうがよいです。

以上みてきたように、生物の個体なるもは種社会の構成要素であり、種社会なるものは同位社会の構成要素であり、同位社会なるものは同位複合社会の構成要素であり、こうして、個体から種社会、同位社会、同位複合社会と総合していった最終的な唯一の社会は生物の「全体社会」とよぶことができます。

このように、生物の世界をしろうとおもったら、実際の生活の場におけるいろいろな生物の相互関係を社会構造論的にとらえることが肝要です。





5.生物の歴史

一つの(生物)全体社会はそれ自身の特徴を持って出発し、その特徴を発揮することによって発展するが、その発展の頂点に達したならば、それはおそかれ早かれ自己解体を起こし、その崩壊によって今度は新たに別の特徴をもった全体社会が発展しはじめる。


生物全体社会はひろがりの限界をもち、それはけっきょく地球のもつ限界にほかならず、生物は、地球をこえては生きられません。また生物全体社会をかんがえるときにのみ、生物社会のほんとうの全体性というものをかんがえることができ、ここに、生物の世界の自己完結性がみとめられます。

自己完結性をもつということは、このような全体社会がどこまでも持続して発展していくということを否定します。生物の歴史は、無限につづく直線的な単なる成長ではなく、化石の研究によって古生物学者があきらかにしたように、何回も変革にあっては、あたらしくまたたてなおされるということをくりかえしてきました。

たとえば中生代には、生物の世界を爬虫類が支配しました。魚類も昆虫もいましたが、この時代は、爬虫類的な特徴の発展が生物の世界の発展であり、爬虫類が支配的階級をしめました。しかし中生代末になるとこの「王国」にもついに滅亡のときがおとずれました。その原因については諸説ありますが、おもな原因はむしろ生物の側にあり、その全体社会の自己完結性に内在していたものとみなされます。

そしてその後、爬虫類にかわって哺乳類と鳥類があたらしい時代(新生代)の代表者になりました。

いま哺乳類を例にとるならば、彼らはかつて爬虫類が占めていた生活の場で、その滅亡のためにいわば空き場となった処を占めるべく、それぞれに適応していった結果、やがてそれらの場は一つ残らずといっていいぐらいに哺乳類のそれぞれな種類によって満たされることとなった。


爬虫類のしめた社会的地位は哺乳類によって踏襲されました。哺乳類が、支配階級を再建したといってもよく、そして生物の全体社会がふたたび平衡をもってその完結性に達したとき、新生代はまさしく、哺乳類の時代とよばれるにふさわしい社会組織を呈するにいたりました。

そしてその発展の頂点は、象の一族が、もっともひろく地球上に分布したときであったのであり、しかし現在ではそれらも大方はほろびてしまい、生きのこった象が人間の荷物をはこばされている有様などをみると、哺乳類の全盛時代がはかなくもすぎさってしまったことがわかります。

ところで新生代の支配階級となった哺乳類はそもそもどこからあらわれてきたのでしょうか? 爬虫類の時代が崩壊する際に、昆虫が、爬虫類にかわって支配階級をどうしてしめえなかったのでしょうか?

爬虫類があらわれるずっとまえには、昆虫が陸上の支配的階級であった時代がありました。しかしその後、水中からおこった脊椎動物がその領域をひろげて陸上に侵入してきました。両生類の出現です。そして昆虫は、両生類に支配をゆずり、被支配階級となり、昆虫は身体を次第にちいさくしていき、両生類は身体を次第におおきくしていきました。

そして爬虫類は、この両生類の道をたどって発展したであろうことは、それらの類縁関係のちかさから類推できることです。爬虫類は、両生類から進化したのです。そしてその後の鳥類と哺乳類は、類縁関係のちかさからいって、爬虫類から進化したのだとかんがえられます。

こうして脊椎動物が地上にあらわれて以来、支配階級は脊椎動物が独占し、「両生類→爬虫類→鳥類・哺乳類」というように支配階級はかわってきました。爬虫類の祖先は両生類のなかに胚胎されていたのであり、鳥類・哺乳類の祖先は爬虫類のなかに胚胎されていたのであり、両生類が爬虫類に変態し、爬虫類が鳥類・哺乳類に変態したのだとかんがえられます。

このように、生物の歴史は「支配階級の興亡史」であって、つぎの支配階級をになうものはそのまえの支配階級のなかからでてくるのであり、被支配階級にすでになってしまった昆虫が生物の世界をふたたび支配することはありえませんでした。歴史的役割をはたすのは一度きりしかなく、生物の進化とはこのような生物の歴史であり、自然現象の単なるくりかえしではありません。

そしてわたしたち人間は、哺乳類のなかからおこり、あらたに、生物の世界の支配階級をしめるにいたりました。それからあとの歴史がまさしく人間の歴史です。

しかし人間の発展にもいずれ限界がくるでしょう。地球は有限であり、地球の自己完結性からいっても無限の発展はありえません。それでは人間のつぎに世界を支配するものはどんなものでしょうか?

上記の考察から、人間にかわってたつべきものは、人間とはそれはよべないかもしれませんが、今の人間のなかに胚胎されているのであり、今の人間のなかから生まれるのだとかんがえられます。それが進化史のおしえるところです。

最後に、進化学説について検討します。

この世界に生物があらわれて以来、何十億年ものあいだ、生物は、環境に対してはたらきかけ、また環境によってはたらきかけられることによって生きてきました。生物と環境は別々のものではなく、身体の延長が環境であり、環境の延長が身体であり、生物が生きるということは、身体を通した環境の主体化であり、身体を通した主体の環境化でした。ここに適応の原理があります。

したがって生物は、一方的に環境に支配されるものではく、環境に淘汰される存在ではないのですから「自然淘汰説」は否定されます。そもそも自然淘汰説は、家畜や農作物などの飼育動植物を人間ののぞむものにつくりかえるために人間がおこなった「人為淘汰」を自然にあてはめたものにすぎず、自然のなかで生活する生物の研究からえられた仮説ではありません。生まれた種が成長していく途上の小さな進化を「小進化」、種の起源すなわち種の創生という、社会組織の大きな変革をともなう進化を「大進化」といったとしても、いずれをとっても自然淘汰ははたらきません。

また「生存競争説」も否定されます。たとえば中生代の末に、勃興してきた哺乳類とそれまでの爬虫類が生存競争をおこない、知能的におとるとされる爬虫類がやぶれて滅亡したということはありえません。

この世界は、もと一つのものから分化・生成・発展してきた体系であり、でたらめなものでは決してなく、秩序があり、体系に秩序があるように、発展にも秩序がありました。自然における変異は気まぐれな無方向なものではなく、はじめから発展へと方向づけられていました。この方向づけは、この世界に内在する自己完結性のしからしめたものであり、この自己完結性こそは主体性の根源であり、全体性の根源でもあり、それはまた、歴史の根底にあって歴史を超越し、創造の根底にあって創造を超越したものです。










今西錦司著『生物の世界』は「相似と相異」という方法論からはじまりました。

わたしたちが生きている世界(宇宙)はもと一つのものから分化・生成・発展してきたものなので、世界を構成しているいろいろなもののあいだには類縁関係があり、わたしたち人間も、この分化・生成・発展の過程なかでうまれてきたのですから、多様なもののあいだに相似と相異の関係をみとめることができるわけです。こうして、この世界に存在するいろいろなものは類縁関係によって整理することが可能になります。

たとえば旅行にいって、かえってきてから旅行記をかくとしましょう。一般的には、みたりきいたりしたことを時系列に物語風にかいていくでしょう。しかし一方で、みたりきいたり体験したことのすべてをまずはかきだしてみて、それらの全体をながめて、時間的前後関係にはとらわれずに、内容が似ている文(情報)をあつめて段落をつくり、似ている段落をあつめて節をつくり、似ている節をあつめて章をつくるという方法もありえます。これは、ものごとの全体を空間的にみて、相似と相異に着目して、相似ている情報はちかくに、相異なる情報はとおくに配置するという方法です。

そもそも理解という現象は、それまでにしっていたことと類似する現象をおもいついたときに生じるとされ、このことは、古代ギリシアの哲学者・アリストテレスがすでに指摘していました(注1)。

このように、相似と相異をみとめることは理解の基本であり、類推や直観をうみだす基盤としてとても大事です。

たとえば先日、ある動物園でトラが子供をうみました。そうしたらある女性が、「よくがんばったね!」と母親のトラに声をかけていました。「あっ、類推がはたらいている」という例です。母トラの苦労や気持ちがわかるのです。ところがこれが、サケの産卵をみても何も声をかけません。もしかしたらサケだって苦労しているのかもしれないのに。あるいはサンゴの産卵をみると何だかよくわからず、むしろ、「うつくしい!」などという別の認識をしてしまいます。ましてや、深海の熱水噴出孔に生息するチューブワームをみたところでほとんど類推がきかず、「何だこれ? 不思議だ!」となります。つまり、類縁関係が人間にちかいと類推ができますが、それがとおいとできません。あるいは人間同士でも、多様な体験をもっている人の方が類推がはたらいて他者の気持ちがよくわかりますが、試験勉強しかしたことがない人には類推ができません。このように類推は、対象や物事を直観的に把握する方法として重要です。

あるいは現場調査によってえられたデータを相似と相異に着目して整理し、それを根拠に類推をしてみれば、よくできた仮説がたてやすく、モデルがつくりやすくなります。モデルとは類型といってもよく、もとのものによく似ていますが細部ははぶかれて特徴が強調され、複雑な現象を単純化し、本質のみを端的にあらわすもの(図式でも数式でも言葉でもよい)です。相似なものごとで出来事を理解し、モデルをつかって発想するという方法であり、これは類比法とよんでもよいでしょう。

こうしていったん仮説がたてられる(モデルがつくられる)と、演繹法と帰納法といった論理展開も可能になり、仮説を検証する作業にはいることができます。仮説を検証する作業を自然科学者は実験といいます。こうして類比法(類推)は演繹と帰納、あるいは実験をうみだす母体としてとても重要な役割をはたします。類比法こそ世界認識のよりどころです。

この方法はその後、川喜田二郎や梅棹忠夫といった今西錦司の弟子たちにもひきつがれ、生態学や文化人類学・文明学・情報論などがおおきく花ひらいていくことになります(注2)。とくに川喜田二郎は、「KJ法」として類比法を高度に技術化し、今西のいう「類推の合理化」を具現化しました(注3)。

さてわたしたちはこのように、いろいろな生物の相似と相異をみとめて、これは鳥だ、これは馬だ、これは魚だというように認識しており、このとき、それらの生物の構造におもに注目しています。しかし一方で、鳥がとびたつ姿をみて鳥だと認識し、草原をはしる馬をみて馬だと認識し、水中をおよぐ魚をみて魚だと認識します。つまり、構造とともに機能もみることがおおいのであり、そもそも生物は構造的即機能的な存在です。

もし生物をつかまえて ころして標本にして観察しているだけだと生物の機能まではわかりませんが、生物が実際に生活している現場にいって観察すれば、構造とともに機能もわかります。ここに、分類学から生態学への進歩がありました。

この機能にこそ、生物の生命が具体的にあらわれているのであり、このような観点にたつと、生物とは身体的即生命的であるともいえます。

そしてこのことは、わたしたちが生きている世界(宇宙)が空間的即時間的な世界であることを反映しているのであり、生物の構造や身体は世界の空間的側面を、機能や生命はその時間的側面をあらわしています。

この世界(宇宙)が、このような空間的即時間的な存立原理をもつとすると、この原理は、生物だけでなく非生物にも反映されるはずであり、それは、物質的即生命的といってもよいでしょう。こうして、この世界は全体として命ある世界とみることができます。

  • 空間的即時間的(存立原理)
  • 構造的即機能的
  • 身体的即生命的
  • 物質的即生命的

これは、生物をふくむ世界全体を自動機械とみなし、人間だけが神によって特別に精神をあたえられたとするヨーロッパ・キリスト教文明人の思想とは根本的にことなることに注意してください。

このように生物は、身体的即生命的な存在であり、環境から栄養をとりいれ、環境に適応して生命を持続させています。

この世界が、もと一つのものが分化・生成・発展してきたという前提にたつと、もと一つのものが分化して生物と環境もできたのであり、環境が先にあってそこに生物が生まれたのではありません。生物と環境は別々のものではなく、生物と環境があわさって一つの体系をつくっており、生物と環境はその体系のことなる側面にすぎません。

ここでいう生物とは人間をふくんでもよく、また個体であっても社会でもあってもよく、これらをまとめて「主体」とよぶことにするならば、生物と環境がつくる体系はより抽象的に、〈主体-環境〉系とモデル化できます(図1)。

190218 主体-環境
図1〈主体-環境〉系のモデル


この体系において、主体は、環境から栄養などをとりいれ、また環境に、はたらきかけをして生きています。たとえば植物は、二酸化炭素を環境からとりいれ、酸素を環境へはきだしています。アリは、環境から食物をとりいれる一方、環境に穴をほって巣をつくったり、アブラムシをかったり、キノコを栽培したりしています。人間は、環境から食料をえる一方、いちじるしい環境の改変をおこなっています。

このモデルにおいて、主体から環境への作用は「主体性」、その逆に、環境から主体への作用は「環境性」(注4)とよぶことができます。〈主体-環境〉系では、主体性と環境性の交互作用がたえずおこって、主体と環境は相互浸透的であり、こうして全体の体系が維持され発展していきます。環境なくして主体はありえず、主体なくして環境もありえません。この全体的な体系がほんとうの生命の体系であり、生命の場であり、環境だけをみていたり、生物だけをみていたりすると、生命あるいは世界の本質はいつまでたってもわかりません。

そして〈主体-環境〉系すなわち生命の場における主体は個体であっても社会であってもよく、個体を主体としたちいさな生命の場があり、種社会を主体としたすこしおおきな生命の場があり、同位社会を主体としたもっとおおきな生命の場があり、同位複合社会を主体としたさらにおおきな生命の場があり、生物全体社会を主体としたもっともおおきな生命の場があるのであり、この生物全体社会を主体としたもっとも高次元の生命の場こそ地球の生命場であり、これこそが地球世界です。

このように生命の場は階層構造になっており、この場は、よりちいさな場を内包しつつよりおおきな場へと次元をたかめるとともに、部分と全体が相即の構造になっており、これは、個即全・全即個あるいは多即一・一即多の世界といってもよいでしょう。

階層構造といえば、分類学では階層分類をすでにおこなっていますが、生物の構造と機能だけに注目するのではなく、生物が実際に生活している場を観察して、その生命場を、社会構造論的にとらえたところに認識のおおきな進歩がありました。

そもそもこのような社会構造論(生物社会学)は「棲み分け」の発見からはじまりました。今西錦司は、1932年、渓流でくらすカゲロウの幼虫を観察・研究していて「棲み分け」を発見したといいます。これにより、個体と種が明瞭に区別され、同種の個体が集合した全体が、構造的即機能的にまとまった高次元の単位(社会)として認識され、すなわち棲み分けをする種社会が実体として把握されたのでした。

カゲロウの幼虫が類推できない人は、山岳地域にみられる森林帯のみごとな垂直分布(帯状構造、帯状の棲み分け)をみてください。一目瞭然です。

そしてこのような階層構造をもつ生命の場は、もと一つのものが分化・生成・発展してきたものですが、分化しているにもかかわらずばらばらにならずに秩序をもつのは、分化しつつも構造化され、多様性が統合されるからであり、ここに、この世界の自己完結性をみとめることができます。地球を、宇宙からながめてみれば、それが、宇宙空間にうかぶ自己完結性のある世界になっていることはあきらです(注5)。自己完結性があるということは、空間的に自己完結するだけでなく、時間的歴史的にも自己完結するのであり、具体的には何事も、はじめがあればおわりがあるということになります。地球の歴史に、古生代、中生代、新生代といった時代区分が生じたのはそのためであり、また地球という惑星にも、終焉のときがいずれくることは宇宙科学者があきらかにしたとおりです(注6)。

このように「今西進化論」は進化を歴史ととらえる立場にたち、いわゆる「ネオダーウィニズム」の仮説を否定します。ネオダーウィニズムで説明できるのは、せいぜい亜種への分化(小進化)までであり、大進化は説明できません。むしろ、古生物学者の S.J. グールドらがとなえる、何千万年に一回の割合でとつぜん種がかわるとする「区切り平衡説」(注7)と調和的です。

また今西進化論は、上記でみてきたように棲み分けにもとづく進化論であり、これは「共存原理」の進化論といってもよく、「生存競争説」「適者生存説」とも相いれません。

それでは進化論的にみて、わたしたち人間は今後どうなるのでしょうか?

わたしたち人間は、通信網をつくり、原子爆弾をつくり、宇宙船をつくり、また近年は、人間をふくむ動植物の遺伝子操作まではじめました。人間は、全面的な地球の支配者となり、地球史上はじめて文明の時代をつくりだしました。まったくこれはおどろくべきことです。

しかしながらどんなに文明が発達しても、人間だけが例外になることはありえません。自己完結性の原理が宇宙にある以上、ほかの種もそうであるように、あるいは地球や太陽もそうであるように、はじめがあればおわりがあるのであり、いずれ限界がきて絶滅します。じたばたしてもしかたありません。問題は絶滅のしかたです。できれば、やすらかに死んでいきたいものです。

しかし人間が絶滅しても、地球の生物全体社会の全滅をそれが意味するのではありません。地球惑星科学者によると、地球は現在、「寿命」のおよそ半分ぐらいのところまできた段階であり、しばらくはまだ存続するようです(注8)。したがって人間にかわる生物が進化してくるはずであり、それは、人間に胚胎されているのであり、人間のなかからでてくるのです。しかしその生物は、もはや人間とはよべないでしょう。それはどのような生物なのか? やはり、戦争をくりかえす感情的な生物なのでしょうか? それとも、共存共栄を重視する心ゆたかな生物なのでしょうか? 興味がつきません。





▼ 参考文献
今西錦司著『生物の世界』(講談社文庫)講談社、1972年

▼ 注1:関連記事
類似性をつかって理解し記憶し発想する - 特別展「古代ギリシャ - 時空を越えた旅 -」(5)-

▼ 注2:関連記事
創造的な情報処理をおこなう - 川喜田二郎著『創造と伝統』-
梅棹忠夫『生態学研究』をよむ
梅棹忠夫『比較文明学研究』をよむ

▼ 注3:KJ法については下記を参照してください。
川喜田二郎著『発想法』(改版)(中公新書)中央公論新社、2017年
川喜田二郎著『続・発想法』(中公新書)中央公論新社、1985年
川喜田二郎著『KJ法 渾沌をして語らしめる』(川喜田二郎著作集 第5巻)中央公論社、1996年

▼ 注4
「環境性」という用語は、今西錦司の弟子・川喜田二郎が最初につかいました。
川喜田二郎著『地域の生態史』(川喜田二郎著作集 第2巻)中央公論社、1996年

▼ 注5:関連記事
多様性が統一された地球 -「宇宙飛行士が見つめた私たちの星」(ナショナルジオグラフィック 2018.3号)-
宇宙から地球をとらえなおす - 宇宙ミュージアム TeNQ -

▼ 注6:関連記事
地球と生物の宿命をしる -「輝く星々の一生」(Newton 2018.1号)-

▼ 注7:S.J. グールドの著作としてはたとえばつぎがあります。
スティーヴン=ジェイ グールド著(浦本昌紀・寺田鴻訳)『ダーウィン以来 進化論への招待』(ハヤカワ文庫NF)早川書房、1995年

▼ 注8:関連記事
イメージでとらえ、言葉をつかって確認する - 松井孝典(文)・柏木佐和子(絵)『親子で読もう 地球の歴史』-