すべてが心の中にあります。心は、深層心と表層心からなりたっています。環境にまでひろがっている心の場と仕組みをとらえることが大事です。
NHK・Eテレ「こころの時代」で、シリーズ「唯識に生きる」が放送されています(注1)。講師は、立教大学名誉教授の横山紘一さんです。

〈唯識〉とは、仏教から派生した、科学と哲学と宗教の三つの要素をかねそなえた普遍的な思想であり、「ただ心だけが存在する」という立場から、「自分とは何者か」「他者とはなにか」「人間いかに生きるべきか」という人生の問題解決に、心の変革をとおしてとりくむ実践的な思想です。



第1回「唯識の歴史と基本思想」
第2回「自分とは何者か」
第3回「唯識を“体得”する」
第4回「深層からの健康」
第5回「唯識の科学性」
第6回「いのちの時代」の到来




第1回「唯識の歴史と基本思想」


〈唯識〉の特徴を端的にしめすとつぎのようになります。


  1. 存在するのは「唯だ識のみ」、すなわち心だけである。したがって、心の外に「もの」は存在しない。
  2. 心には表層心と深層心とがあり、深層心として阿頼耶識(あらやしき)と末那識(まなしき)とがある。
  3. 心を深層から変革すれば、自分が、世界がかわる。


「心」ほど身近でありながらとらえどころのないものはありません。しかもそのありようによってはこれほど自分をくるしめ、まよわすものはありません。実生活のなかで〈唯識〉をいかすことができれば、まよいからぬけだして生きていくことができます。


紀元四、五世紀には、無著(むじゃく)と世親(せしん)というインド北西部出身の兄弟によって〈唯識〉が組織体系化されました。


兄の無著は、部派仏教を最初は修しましたがそれに満足せず、大乗仏教の「空」の思想をまなびました。そして『摂大乗論』(しょうだいじょうろん)において唯識思想を理論的に体系化しました。

弟の世親も、部派仏教に最初は属していましたが大乗仏教に転向し、唯識思想をさらに発展させ、『唯識二十論』や『唯識三十頌』(ゆいしきさんじゅうじゅ)として〈唯識〉を集大成しました。

その後、中国の僧・玄奘(げんじょう、602〜664、『西遊記』の主人公・三蔵法師)がインドから中国に〈唯識〉をつたえ、彼の弟子である窺基(きき、632〜682)が〈唯識〉を根本の教理とする法相宗を確立しました。

日本へは、飛鳥・奈良時代につたえられ、南都仏教のなかで隆盛をみるにいたり、仏教の根本思想として宗派をこえてまなばれるようになりました。

〈唯識〉の基本となる重要な思想はつぎのとおりです。


  1. 一人一宇宙である
  2. 私たちが見ているのは心の中の影像である
  3. 他者のお陰で自分は生きている
  4. 知るのではない、知らしめているのである(唯識の原語)


眼をとじてみてください。すると眼の前にあったすべてのものがみえなくなる一方で、ほかの誰もがはいってくることができない世界があることに気がつきます。そこで腕のどこかをつねってみましょう。いたみを感じるのは自分だけです。いたいという感覚が生じるのは自分のみです。おなじように、眼をあければ、眼の前のものは自分だけに見えるのであって、自分の眼の感覚(視覚)が生じているだけだと気がつきます。あなたが世界(宇宙)を見る、その感覚はあなた自身のものであり、ほかの誰のものでもありません。「一人一宇宙」といってもよいでしょう。このようなことは現象であって、信仰の対象ではありません。

唯識学派の人々は、心は、つぎの八つのタイプ(八識)から構成されるとかんがえました。


表層心
 感覚:「眼識」「耳識」「鼻識」「舌識」「身識
 思考:「意識
深層心
 自我執着心:「末那識」(まなしき)
 根本心:「阿頼耶識」(あらやしき)

 
わたしたちは眼をあけておおくのものを見ます。たとえばAさんを見ます。これは、眼の感覚(視覚)がはたらいているのであり、「眼識」(げんしき)とよびます。眼は、感覚器官のひとつであり、そこからはいってきた情報は、心の作用(人間の情報処理のしくみ)によってひとつの像をつくりだします。この像は、心のなかにえがかれた絵といってもよいでしょう。

同様に、耳・鼻・舌・身も、情報をとりいれる感覚器官であり、それらをとおして、聴覚・臭覚・味覚・触覚がはたらき、対象を直接に認知します。

そしてさらに心のなかで感覚は鮮明にされ、概念的にも対象が把握されます。このようなはたらきをするのが「意識」です。たとえばあなたはAさんがきらいだとします。Aさんを見たその瞬間は誰であるかわからず、きらいでもすきでもありません。しかしつぎの瞬間、過去のいきさつからAさんの「像」にきらいという「感情」を付与し、きらいだという「言葉」で色づけをします。

きらいな人にであったときに生じる嫌悪感、ほしいものを見たときに生じる欲望といった感情がなまの感覚情報に色づけをあたえます。わたしたちは、きらいな人が眼前にいるとおもっていますが、実際にはこれらはすべて、自分の心のなかでおこっている過程にすぎません。

そして深層心(心の下部構造)としては「末那識」(まなしき)と「阿頼耶識」(あらやしき)があり、末那識は自我執着心で、表層心がエゴ心でけがれる原因となる識であり、阿頼耶識は一切を生じる「種子」(しゅうじ)を有する識です。種子とは、阿頼耶識のなかにあって、あらゆる現象を生じさせる原因のことです。

眼をとじて心のなかをしずかに観察してみると、種々の「影像」と「感情」と「言葉」がふかいところからつぎつぎとふきだしてくることがわかります。そのふかいところが阿頼耶識です。心のなかにあらわれてくるすべては、阿頼耶識といういわば「絵師」がえがき表現したものであり、人それぞれの阿頼耶識のありようがことなるので、「一人一宇宙」の心のありようも相違してきます。

〈唯識〉とは、正確には、「唯だ知る」のではなく、「唯だ知らしめられている」という意味です。たとえばひとつのリンゴを前にして、眼をとじたりあけたりしてみると、眼をあけたとき、リンゴを見まいとおもっても見えざるをえません。つまり、わたしたちはリンゴを見るのではなく、見せられています。リンゴは、知らしめられています。では、なにが知らしめているのかというと、〈唯識〉では、深層の根本の心である阿頼耶識であるとこたえます。

また仏教では、「他者の存在のお陰で自分は存在している」とかんがえ、これを「縁起の理」といいます。「縁」とは「(自分以外の)他の力」であり、この他の力で生かされていることを「縁起」といいます。「観想縁起図」をながめていると、存在するのは、無量無数の他の力だけであり、自分は、ただ他の力で生かされているだけだとわかります。他の力だけがあるのであって、「自分」など存在しないことに気づいてきます。 





第2回「自分とは何者か」


人間は、さまざまな問題や悩みをかかえています。


一概には言えませんが、四、五十代の人は、どこかで妥協し、我慢して、義務的に努力して生活し、表面上は笑顔でも心の中はヘトヘトに疲弊しているケースが見受けられます。

三十代の人は、こんなに頑張っているのに報われない、認められないと不満を抱え、かといって自分に確たる自身があるわけでもなく、いつもなにかのせいにして堂々巡りを繰り返し、「どうぜ無理」という閉塞感を抱いているケースが結構見られます。自己肯定ができないのに承認欲求が強く、思い通りにならないと人のせい、ということです。

  • 上司や同僚とうまくコミュニケーションが取れない
  • 会社の経営方針や上司の考え方についていけない
  • 自分の感情の波をコントロールしたい
  • 周りの人びとの目が気になる

過保護な子育てと教育とがなされていること、情報があふれていること、人と人とがうわべだけで関与していることなどによって形成されたのが現代人特有の心です。(中略)

「なに、なぜ」をちゃんと考えている子どもほど、社会の情報や親のしつけなどで素直に語ることができず、痛みを受けています。「なに、なぜ」を考えることの教育が学校でなされていない点が問題です。


少子化の時代と現代はいわれ、口出しや手出しを一人の子どもに過剰に親がすることによって、本来もっている子どもの生きる力がうばわれています。子供は、自己を表現するのはわるいことで、人にあわせるのはただしいことだとおもい、人の目を気にして、自分をおしころすようになっています。思考や行動を自分自身ですることができなくなり、感動や善悪を感じられなくなり、生きる力がよわまっています。

親は、「自分の子ども」という意識を子どもに対してつよくもちすぎて、親の所有物に子どもがなっているところに問題があります。自分の子どもではありますが、同時に、「いのちの子ども」でもあるとかんがえることによって、本来もっている子どもの生命力をひきだすことが大事です。自分の子どもをとおして、よりふかい「いのち」に気づくことができるかどうか。

わたしたちは、「自分」「私」があるとかんがえて生きていますが、自分自身に執着する心にともなう心配におわりはありません。このような「自我執着心」あるいは「自我意識」を所有しているかぎり、自我意識を中心にすべての行為が終始し、たとえば他者を愛するときも、お返し(見返り)を期待することになります。

〈唯識〉では、深層にはたらく自我執着心を末那識とよび、わたしたちは、自分の行動において自分自身への固執に気づくことができ、その気づきの意識のもとで末那識がはたらいていることを推測することができます。

自我執着心のない「真実の “自分”」(あたらしい自分)は「無我」であり、いいかえると「空」(くう)となります。空は、サンスクリット語では「シューニャ」といい、「ゼロ」を意味します。





第3回「唯識を“体得”する」


ヨーガ(yoga)は、最近ではヨガと言われ、体を柔軟にする体操の一種ととらえられることが多いのですが、本来は瑜伽(ゆが)と音訳される修行法です。〈唯識〉を唱える学派は「唯識瑜伽行派」と通称されるように、ヨーガの実践を通して、心の中を縦横に、また深く観察しました。


真実の唯識性は、言葉をはなれて体得した「究極の真理の世界」であり、この世界にいたるための実践が「ヨーガ」です。

ヨーガの実践内容をひと言でいえば「なりきる」ことです。しかしたとえば「息になりきりなさい」といわれても、どうすればいいのかとっさにはわかりません。英語では、「なりきる」を「becoming one with」すなわち「一つになる」と表現します。「息と一つになる」ことが「息になりきる」ことです。自分と息の二元対立の世界から一元の世界に復帰するということです。

「一つになる」というのが「なりきる」という表現よりもわかりやすいのは、現在は多様に変化している全存在が、もともとは「一つ」であったからです。わたしたちは千差万別の世界に今はいきていますが、深層心には、元来は一つの世界であったときの思い出がひそんでいます。

浅草寺に参拝にきたイタリアの観光団の人たちに「心と物」という題で講演したときのことです。


「実験で重力の加速度を計ることができますが、重力そのものを体得するには、どうすればよいでしょうか」
質問には誰も答えません。
そこで私は前に進み、高さ1メートルほどの講壇から下にドスンと飛び降りました。
「これが重力を体得することです」
すると全員、拍手をしてくれました。


わたしたちは、言葉どおりに物事があるとかんがえていますが、そうでしょうか。言葉と、言葉がさししめす対象とはことなるものであり、言葉には限界があります。〈唯識〉は、言葉ではいいえず、言葉をはなれて「体得」しなければなりません。





第4回「深層からの健康」

シリーズ第4回は、NHK のスタジオをでて興福寺・北円堂からの放送です。北円堂は、治承4年(1180)の被災後、承元4年(1210)ごろに再建され、鎌倉時代の建物であるにもかかわらず、奈良時代創建当初の華麗で力づよい姿をよくのこしています。堂内には、本尊弥勒如来(みろくにょらい)、法苑林(ほうおんりん)・大妙相菩薩(だいみょうそうぼさつ)などとともに、〈唯識〉を体系化した、無著菩薩、世親菩薩の像が安置されています。

今回は、深層心についてかたります。


たとえば、ある人を嫌うという表層心の煩悩は、それを生ぜしめる深層心である阿頼耶識の中の種子(しゅうじ)を消滅させないかぎり、なくなることはありません。

誰かを嫌う煩悩だけではありません。私たちは、貪る、怒る、妬む、おごる、などの多くの煩悩をもちますが、それらを消滅させるためには、阿頼耶識の中の煩悩の種子を焼き尽してしまわなければなりません。すなわち、煩悩という病いをなくすためには、阿頼耶識という深層心を浄化して、深層から健康になる必要があるのです。


阿頼耶識を浄化するためには、「正しい教えを聞く」ことが必要であり、またいついかなるときでも「なりきる」修業をします。「なりきる心」(一つになる心、分別しない心)が重要です。

わたしたちは、人のためになろうとおもって、何かを相手にほどこします。わたしは物をあたえる「施者」となり、相手は「受者」となり、わたしたちのあいだには「施物」があります。しかし他者のためになろうと意図した行為によって、かえって、自我意識がつよくなってしまいます。おごりがわいてきます。煩悩の種子が阿頼耶識に芽吹きます。こういうありようでほどこす行為をすべきではありません。

そこで施者・受者・施物という概念的区別をもうけず、それらに執着することなく、「無分別」で行為することが重要です。なんらかの行為と一つになる鍛錬に身をささげることによって自我意識がなくなります。

〈唯識〉には、身体と阿頼耶識との関係を説く「安危同一」(あんぎどういつ)というかんがえがあります。安危同一とは、一方がよい状態にあれば他方もよい状態になり、逆に、一方がわるい状態であれば他方もわるい状態になるという相互因果関係をいいます。深層心である阿頼耶識がよい状態にあれば身体もよい状態になり、逆に、阿頼耶識がわるい状態にあれば身体もわるい状態になります。ながくつづくストレスが阿頼耶識を不健康にし、その阿頼耶識が身体に悪影響をあたえます。身体の健康をのぞむなら、深層心のありようにも留意しなければならず、深層心を浄化しようとするならば、身体のありようをととのえなければならないことをおしえています。





第5回「唯識の科学性」

今回は、東京大学国際高等研究所・カブリ数物連携宇宙研究機構を訪問し、〈唯識〉の科学性についてさぐっていきます。

研究所内のふきぬけの共有スペースにたつ柱には、カブリ数物連携宇宙研究機構の設立理念をあらわすつぎの言葉が記されています。


universo é scritto in lingua matematica(宇宙は数学の言葉で書かれている、ガリレオ=ガリレイ)


物理学者たちは、数学(数式)をつかって宇宙や法則を表現します。まったく例外はありません。

科学では、現象をまず観察して、法則によって世界を理解しようとします。〈唯識〉も、現象を観察し、法則によって理解しようとします。〈唯識〉の法則は「縁起」です。これは、正式には「因縁生起」といい、すべての原因は「因」と「縁」により生じることを意味します。因は根本原因、縁は補助原因です。

仏教の歴史のなかで「因」とはなにかという問題がながらく議論されてきましたが、〈唯識〉が、「それは阿頼耶識の中の種子である」と説くことによって議論に決着をもたらしました。〈唯識〉では、「一因多縁」すなわち一つの因(種子)からおおくの縁が関与して、その種子が芽をふいて現象が生じるとかんがえます。たとえばある人を にくむという現象がある場合、にくむという煩悩の種子が阿頼耶識にうえつけられるまえに、その人とのあいだにおおくの縁があったはずです。また現在もその人に会っているとしたらそれも縁です。生じてくる現象をしずかに観察してみると、おおくの因と縁があつまってすべてがつくられたことに気がつきます。

科学と同様に〈唯識〉も、存在するものすべてを観察します。存在するものの代表的な分類法として「五蘊」(ごうん)があります。


「蘊」の言語「スカンダ」は、「まとまり」「集合体」という意味で、私たち人間を構成する諸要素を種類別にまとめた言い方です。色蘊(しきうん)・受蘊(じゅうん)・想蘊(そううん)・行蘊(ぎょううん)・識蘊(しきうん)の五つがあります。

五つの中、「色」は、広くは物質を、狭くは私たちの身体を言います。

「受・想・行・識」の四つは精神的な働きを言います。このうち「受」は苦や楽などの感受作用、「想」は知覚作用、「行」は意思作用、「識」は認識作用を意味します。


二十世紀の物理学における二大功績は、量子論と相対性理論がうちたてられたことです。量子論があつかうミクロの世界では、粒子(量子)には、「粒子でもあり波動でもある」という2つの性質があり、あるときは粒子として、あるときは波動として観察されます。このことから、存在するもののありようは、「本来のありよう」と「認識されるありよう」との2つからなりたっていることがわかります。観察される見かけの現象(認識)とはことなる、見ることのできない本来のありようがあります。

  • 本来のありよう
  • 認識されるありよう 

このような量子の性質から、ある時点で量子が存在する場所を確実にしめすことはできず、確率的にしかしることができません。ところがその量子の存在する位置は、人間が観測すると1つの場所に確定されます。人間の見る・知るという認識行為が、存在するもの(物質)に関与しているかのようです。古典力学では、物質は、心の外に存在する実体的な存在であるとかんがえられましたが、量子論は、その “常識” に疑問符をつけました。

原子は、心の外に、実体としてあるのでしょうか?〈唯識〉では、「極微は、意識によって事物を分析して、心のなかに仮につくりだされた影像にすぎない」と主張します。





第6回「いのちの時代」の到来

最近は、個性をのばす教育がうたわれています。型にはまった画一的な人間をつくりだすこれまでの教育がみなおされつつあります。


しかし、個性を伸ばす前に、個性が伸びる素地を養成することが必要です。たとえば、作物を育てるためには、まずそれらが育つ土壌に肥料を与え、肥えた状態にすることが必要です。土地がやせていたら、どんなに立派な種子であっても、そこには立派な作物がそだちません。


人間も同様で、個性を発揮するためには、ただしく立派にそれが開花するように、それを育成するいわば土壌を養成することが大切です。

個性だけをのばすことに終始していると、やせた植物のようなひ弱な人間に、ときには、人々に害をあたえる人間になるかもしれません。


  • 事実を事実としてしる智
  • 人びとを慈しむ愛


という人間に普遍的な要素が必要です。前者は「知恵」、後者は「慈悲」であり、これらは普遍的な「共性」です。

現代には、地球環境の破壊、民族紛争・宗教対立、テロ事件などの大問題があり、個人的な領域では、ストレス・無気力・ききがいの喪失からはじまり、衝動的な殺人など、山積の問題があります。人間ひとりひとりのなかに普遍的な共性の養成がなされていません。そのためには、阿頼耶識のなかにある「共性の種子」に「肥料」をあたえる教育が必要です。

戦争や紛争、貧困・差別・搾取などの状態をおこす根本原因は人間の心のなかにあります。それは心のなかにある自我執着心です。「自分」「自分の家族」「自分の会社」「自分の国」「自分の宗教」・・・、このようなおもいから自他対立の意識がうまれます。


  1. 「普遍的いのち」を有した同じ仲間であると気づく
  2. 「嫌いな人、憎い人」というのは錯覚であると気づく
  3. 「根源的いのち」としての阿頼耶識を浄化する
  4. 自然のなかの「いのち」に触れる
  5. 二代尊厳性(知恵と慈悲)を発揮しつつ生きる


「普遍的いのち」に気づくことから対立なき平和な世界がはじまります。






以上みてきたように、心は、表層心と深層心からなりたっています。目をとじて心のなかを「観察」してみれば、イメージや感情や言葉がつぎつぎにわきあがってくるとおもいます。わきあがるその根底が深層心であり、わきあがってくる上の方が表層心です。

  • 表層心
  • 深層心

深層心はさらに、「末那識」(まなしき)と「阿頼耶識」(あらやしき)に区分され、末那識は、自己という意識をうみだす心のはたらきであり、自己を愛し、自己を存在させる迷いの根源です。阿頼耶識は、すべての心のはたらきの源であり、万有が展開する際の基体であり、底しれぬひろがりをもっています。

  • 末那識
  • 阿頼耶識

深層心の上に位置する表層心は、「感覚」と「思考」に区分され、感覚には、「眼識」(げんしき)、「耳識」(にしき)、「鼻識」(びしき)、「舌識」(ぜっしき)、「身識」(しんしき)の五つがあります。わたしたちは、眼・耳・鼻・舌・皮膚などの感覚器官をもっており、これらの感覚器官でえられた情報を処理して、視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚などをはたらかせて生きています。

  • 眼識
  • 耳識
  • 鼻識
  • 舌識
  • 身識

そして感覚は、過去のいきさつなどからくる感情によって色づけされ、概念的にも把握されます。このような心のはたらき(思考)が「意識」であり、たとえばAさんをただ見るのは「眼識」(視覚)ですが、それに、記憶などにもとづいて「きらいだ」という感情をつけくわえ、あなたの心のなかでAさんという人物を確立するのが「意識」のはたらきです。現代的にいうと、感覚は一次的な情報処理、意識は二次的な情報処理であり、一次的な情報は、意識によって、加工されたり編集されたりするとかんがえるとわかりやすいでしょう。心とは、人間の情報処理のこのような仕組みあるい場であるといってもよいでしょう。

人間は誰もが、さまざまな問題や悩みをかかえて生きています。人生の問題を解決するためには、表層心をはたらかせるだけでなく、深層心の変革が必要です。

そのためにはまず、末那識のはたらきをよわめていくことがもとめられます。

わたしたちは、自分の行動をふりかえってみて、自分自身への固執に気がつくことによって末那識がはたらいていることを推測することができます。たとえば他者を愛するときに無意識のうちにお返しを期待してしまうことがあります。「わたしがこれだけ愛しているのだから・・・」。あるいは世の中のためになろうとおもって何かを相手にほどこしたときに自我意識をつよめてしまうことがあります。「必要なものをこれだけそろえてあげたのだから・・・」。あるいはその人がかわいそうだとおもってお金をあたえて、「これだけあげたのだから期待にこたえて当然だ」。こうしておごりや優越感が発生します。ボランティア活動や社会貢献活動をするときにも十分に留意しなければならないことです。

自我意識を中心にして行動していると、不安や猜疑心にさいなまれます。自我執着心にともなう心配におわりは決してありません。

そこで「自分が」という意識をすてて、その行為と一つになる鍛錬に身をささげるようにします。そのことによって自我意識がよわまります。

また さまざまな苦しみの「種子」(しゅうじ)は阿頼耶識に芽吹きます。ストレスが阿頼耶識を不健康にし、その阿頼耶識が身体に悪影響をあたえます。阿頼耶識がわるい状態になれば身体もわるい状態になり、阿頼耶識がよい状態になれば身体もよい状態になります。

そこで阿頼耶識を浄化し、身体をととのえる(健康になる)ために、現象に「なりきる」修業をします。たとえば息をするときには息になりきり、息と一つになります。東洋では呼吸法を重視します。あるいは一流のサーファーは「波をよむ」のではなく「波になる」といいます。

最新の進化論や生命科学によると、多様性のある現在の世界はもと一つのものが分化・生成・発展してきたものであることがわかっています。全存在は元々は一つであったとすると、一つになるということは本来の状態になるということであって、不自然なことではなく、自然なことです。人類は、感覚(表層心)を発達させて理屈っぽくなってしまいましたが、原始的な生物ほど現象と一体になって、現象になりきって生きています。わたしたちは、千差万別の世界に表層心では生きていますが、深層心の奥底には、もと一つの世界に生きていたときの「思い出」(記憶)がひそんでいるとかんがえられます。

このようなことから、現象になりきる(一つになりきる)、あるいは今ここになりきることが深層心を変革するための修業として重要であることがわかります。これは同時に、自我執着心をよわめることでもあります。

このように〈唯識〉は、科学性をそなえた普遍的な思想であるとかんがえてよいでしょう。

シリーズの第5回では、東京大学国際高等研究所・カブリ数物連携宇宙研究機構を訪問して〈唯識〉の科学性について認識をふかめました。

天文学者をふくむ物理学者たちは「数学の言葉で宇宙は書かれている」といいます。これが重要です。数理現象によって宇宙はとらえられ、宇宙や法則や物質の世界は数式で表現されます。一件の例外もありません。

また物理学者たちは、観察や観測や実験をくりかえし、最大限に感覚をはたらかせます。さまざまな観測機器の開発や大規模な実験施設の建設などもおこないます。当然のことです。

ところがそれに対して数学者たちは、感覚を必要としません。観測も実験もおこないません。

わたしが高校生だったころ、物理から数学に転向した先生がいました。
「不器用で実験が下手で面倒くさいから数学に転向したんだ。数学は、鉛筆と紙だけあればいい。こんなに便利な学問はほかにはない」
とのべていました。

数学は純粋に、心(意識)だけがあればすすめられる分野です。感覚も、物質に関する知識もいりません。それどころか、物理学も化学も生物学も地学も工学も必要としません。数学は、人間の心の中の過程だけでなりたちます。

しかし物理学はちがいます。数学を必要とします。そうだとすると、数学の体系と物理学の理論体系とではどちらが大きいのでしょうか?

上の考察から、数学の体系のほうが大きいのはあきらかです。数理現象の世界は物理現象の世界の外にまで大きくひろがっています。物理学の体系は数学の体系の中にあります(図1)。

数学と物理
図1 数学と物理学


したがって物理学者がえがきだした宇宙は、人間の心(意識)の中にあるといえます(注2)。おこっているのは人間の心の中の過程であり、端的にいえば、心の中に宇宙があるということになります。

また現代の量子論では、人間の感覚が物質の存在に関与している可能性をしめしています。これも重要です。物理学の研究が今後も注目されます。

このように〈唯識〉は、数学や物理学あるいは人間の情報処理や進化論などともかかわりながら、普遍的な思想として発展していきます。

そして本シリーズの最後では「普遍的いのち」についてのべられます。

人間の個性をそだてるためには、そのための「土壌」づくりもあわせておこなうことが重要です。すなわち人間の成長は人間だけでできるわけがなく、環境も必要であり、人間と環境が「一つ」になってすすめられる過程でなければなりません。「自分が」ということではなく、環境までふくめた全体に心をくばるようにします。

そもそもひとりひとりが認識している環境も心のなかにあるのであり、いいかえると心の仕組みは、身体の外にまでおおきくひろがっているということになります。心とは、どこかせまいところの中にあるのではなく、環境もふくめた全体の体系であり、「普遍的いのち」の場であるととらえたほうがわかりやすいです(図2)。そしてこのような問題意識のもとで、人間の成長についてもみなおさなければならないのだとおもいます。

190202 人間-環境
図2 心の場のモデル



▼ 参考文献

▼ 注1
シリーズ「唯識に生きる」(NHK・Eテレ)

▼ 注2:関連記事
意識のなかに宇宙がある? - 宇宙のすべてを支配する数式(Newton 2018.7号)-


スポンサーリンク