日本の基層文化である縄文文化が色濃くのこっている東北地方を調査しました。現代の日本にも縄文文化はおおきく作用しています。共生と循環の原理がこれからの時代には必要です。
梅原猛著作集第6巻(小学館)には、『日本の深層』と『日本の原郷 熊野』がおさめられています。梅原猛さんは、日本文化は、縄文文化を基層文化とし、そのうえに、弥生文化および外国から移入されたそれ以後の文化の影響がくわわってできた文化であるという仮説をたてています。

本書の第1部は、その縄文文化の跡をもとめて東北をたずねた紀行文です。旅をしながら仮説を検証していく様子がわかります。




多賀城〜平泉
日本は、律令時代以前は「倭」といわれ、南朝鮮と西日本が倭の国であり、東日本は、倭の国とは自覚されていませんでした。

しかし白村江の戦い(663年)によって朝鮮半島との関係がうしなわれると、そのときすでに倭から「日本」へと国名をあらためていた日本国は、西にむかっていたエネルギーを東に転化し、東日本そして東北(蝦夷)への侵略をはじめました。そのための前線基地、拠点になったのが多賀城です。多賀城はやはり城でした。辺境を攻めそして守るための軍隊が駐留していました。多賀城が、ほかの国府よりも規模が数倍おおきく、要害にかこまれ、緊張感がみなぎっていたのはこのためです。

多賀城のちかくには巨大な寺がかつてはあり、当時の日本のあたらしい国家宗教であった仏教も蝦夷を支配するためにおおきな役割をはたしたことがわかります。

前線基地はその後、北へ北へとのぼっていきます。伊治城、胆沢城、徳丹城、志波城。時代とともに北上していくこれらの城は大和朝廷の蝦夷侵略・東北征服の歴史をしめしています。

軍事的侵略をつづける大和朝廷軍に対して、蝦夷は、敗北の一途をたどります。とくに坂上田村麻呂による蝦夷征伐は致命的でした。しかし11世紀になると、安倍頼時のもとで結集した蝦夷の人々が大反乱をおこします。そこで朝廷は源頼義を派遣、1062年、安部氏はほろぼされました。

安部氏にかわって、出羽の豪族・清原武則が、奥六郡(胆沢郡、江刺郡、和賀郡、稗貫郡、斯波郡、岩手郡)の支配権を継承しました。しかし内紛がおこったため、陸奥の豪族・藤原清衡が支配権を継承しました。

藤原清衡は平泉に居をうつし、藤原基衡、藤原秀衡の3代にわたって平泉文化を開花させました。その中心には中尊寺があり、その金色堂が、平泉文化のかがやきを今日につたえています。

この金色堂は、阿弥陀如来を本尊とする阿弥陀堂ですが、その中央壇には藤原清衡の遺体、むかって左の壇には藤原基衡の遺体、右の壇には藤原秀衡とその嫡子・藤原泰衡の遺体が安置されており、おどろいたことに、これらの遺体はどれもミイラになっていました。ミイラをつくる風習は仏教にはもちろんありません。ミイラは、あきらかに別の信仰からきています。それは、首長が死ねば、その遺体を妻が毎日あらってミイラにしてほうむる樺太アイヌの風習をおもいおこさせます。これ以外にも、東北やアイヌの文化遺産といわざるをえないものが平泉文化のなかにいくつもみつかります。



北上(和賀)、沢内、花巻
この地方には「鬼剣舞」(おにけんばい)という祭りがあります。これはお盆におこなわれ、鬼が、刀や弓矢はいろいろなものをもっておどります。鬼とは、日本に渡来してきた農耕民族においはらわれた土着の狩猟民族の遺民であるらしいです。弥生人においはらわれた縄文人、大和朝廷にほろぼされた安部氏の霊が鬼となってお盆にあらわれるのでしょう。

また鹿や猪の面をつけておどる「鹿踊り」(ししおどり)もさかんです。この「鹿」(しし)のことを「権現様」といい、つまり「鹿」は神そのものです。神が姿をかえて「鹿」となったというのです。これは、アイヌの「熊」、カムイ(神)をおもいださせます。

つぎに碧祥寺博物館というマタギの博物館にいってみると500点にもわたるマタギの用具が収集されていました。マタギとは、山にすんで熊や鹿をとって生計をたてている猟師であり、狩猟採集民の山民あるいは縄文人の遺民といってよいでしょう。

花巻につくと、宮沢賢治記念館が開館していました。宮沢賢治は、故郷をはなれて東京へいこうとはせず、生涯の大部分を故郷の花巻ですごしました。まちがいなく東北人でした。賢治は、世界において人間だけが特別な権利をもっているとはかんがえず、鳥や木・草・獣・山・川にいたるまでのすべてが人間と同じように永遠の生命をもっているとみなしました。永遠なる生命をあたえられながらあらそわざるをえない人間の宿命とその宿命からの超越が賢治が詩でうたい童話でかたる世界であり、それは、仏教移入以前の日本にすでに存在していた世界観かもしれません。この東北の地は、そのような世界観を保存し、それが、賢治の詩や童話となってあらわれたとみるべきでしょう。



遠野
遠野は民俗学発祥の地です。柳田国男は『遠野物語』で、遠野の山奥からかすかに木霊してくる山人の声をきこうとしました。柳田は、遠野に存在した神々についてかたっています。おしらさま、おくないさま、こんせいさま、おこまさま、かくらさま、ざしきわらしなどです。

「おこまさまを祀っている神社には、こんせいさまがいらっしゃる」

「おこまさま」を祀っている神社とは駒形神社のことであり、この神社の本尊は実は「こんせいさま」でした。こんせいさまとは みごとな男根のことであり、東北地方のおおくで こんせいさまがまつられています。このような性器崇拝は日本各地でみられますが、東北においてはるかにおおく大胆です。一方、縄文時代の遺跡からは石棒(男根を形どったもの)が多数出土します。すなわち性器崇拝は縄文時代までさかのぼり、東北地方には縄文文化の跡がはっきりのこっているとかんがえられます。

また遠野にはおおくの石碑が町の境にたっています。これは、出羽や日光や伊勢や金比羅などに講をつくって詣った記念であり、その詣った神々の霊によって悪霊から村をまもる意味がこめられています。石は神であり、これも、縄文時代からつたわるものです。



岩手郡渋民村
ここは石川啄木の故郷であり、啄木記念館があります。この建物は、啄木の渋民村小学校在職時代にすんでいた家を移築したものであり、啄木に関するおおくの遺品が保存されています。

啄木は、太宰、賢治とともに2つの点で東北人でした。ひとつは、東北人のもっているつよい自負です。そのたかい自負が、他郷の人間には容易に理解できない東北弁と同居するときに東北人はふかい孤独を感じ、そしてその孤独がかなしい詩となります。もうひとつは、東北人には、想像力にめぐまれた人がおおいといえます。東北は、文学者ばかりかすぐれた歴史家もうんでいます。徳川時代の平田篤胤と安藤昌益そして明治以降の内藤湖南と原勝郎などです。詩人ばかりか歴史家をうんでいるのははなはだすぐれた想像力を東北人がもっているゆえでしょう。



岩泉、龍泉洞
岩泉地方には石灰岩の台地がおおく、いたるところに洞窟があります。洞窟では、旧石器や縄文時代の遺跡が発見されやすく、たとえば龍泉新洞では縄文時代の遺跡がみつかり、遺物の一部が陳列されています。

龍泉洞のなかにある湖は日本一透明度がたかいといいます。原始人は、洞穴は黄泉の国への入り口であり、その先の巨大な湖のはてには別の世界が、黄泉の国があるにちがいないとかんがえたことでしょう。

人間が死ねば、天にある祖先たちの国にかえります。しかしもうひとつ、地の底には黄泉の国があり、いったんそこにおちたらもうでてこられません。できれば天国にいきたい。黄泉の国はおそろしいところです。



天台寺
岩泉から天台寺まで3時間、山門をはいってみると、門の左右の仁王様にしろい紙がいっぱいはられています。この地の人たちは、病気になると仁王様におまいりして、患部に紙をはっていくといいます。このような信仰は仏教にはありません。日本で仏教とかんがえられているもののなかには、仏教以前に日本に存在した土着信仰がとりいれられています。

ここの寺では、重要文化財のナタ彫りの聖観音と十一面観音におめにかかれました。聖観音は、北辺の支配者にふさわしい堂々たる威厳にみちています。ふっくらとした体から慈愛がこぼれおちそうですが、それでいてつよい意志がその顔から感じられます。

天台寺という寺の名前は、比叡山延暦寺とのむすびつきをおもわせ、北辺における天台宗の総本山だったことを意味する名です。このようなゆゆしい名を名乗る寺は延暦寺の末寺にほかにはありません。

このように仏教も北上してきました。しかし土着信仰をとりこみながら、変容しながらの定着でした。



津軽(青森県郷土館〜弘前)
縄文晩期、今から3千年〜2千年前、本州の北端・津軽には、すばらしい縄文文化「亀ヶ岡文化」がさかえていました。亀ヶ岡式の土器は、最盛期には、北は北海道の半分、南は近畿地方までひろがっていました。

また土偶もたくさんあります。遮光器土偶がよくしられています。あの目のおおきい土偶です。縄文人は、猪や熊についてはまことにリアルな模造をつくりましたが、抽象芸術のように人間の像はすべてデフォルメしてあります。おそらくこれは死霊の像であり、人が死んだときに土偶をつくって、その土偶に死霊をうつして鎮魂の儀式をしたのではないでしょうか。このような宗教儀礼に土偶がつかわれたにちがいありません。

8月は東北の祭りの季節です。それはお盆の季節であり、人々のところに死霊がおとずれる時期です。いっせいに人々は故郷へかえり、死霊をむかえます。青森のねぶた、弘前のねぷた、恐山の大祭(地蔵会)、秋田の竿灯、岩手の鹿踊りや山伏神楽など、死霊をむかえ、よろこばせ、それをおくる祭りです。

太宰治の故郷、金木町にある川倉地蔵は、赤や青の現色のうつくしい着物をきて、顔に白粉や口紅をつけています。子供をなくした親が、死んだ子供を地蔵にみているのでしょう。
「ああ、かわいそうに。おまえはいま、どこにどうしているのだろう」

弘前市にある九渡寺は、おしらさま信仰の本山として有名です。おしらさま信仰は東北一円にさかんです。おしらさまとは、「シランパカムイ」(木の神であり、生きとし生けるものすべてを代表する神)をあらわしたものであり、こけしも おひなさまも、おしらさまからきたとかんがえられています。
 


出羽三山
出羽三山は、近畿地方の吉野山、熊野山および九州の英彦山とともに修験道の中心地です。修験道は、日本人がもともともっていた山岳崇拝と関係しています。山は死霊の住処であり、人間が死ぬとその霊は山にいき、しばらく滞在します。山岳へいって人間の霊はきよめられ、徐々に徐々に上にのぼっていき、やがて昇天して神となります。

一方、地獄におちてくるしむ霊もいます。湯殿山奥之院のかたわらには祖先の霊を祀る地蔵があり、そこに灯明をそなえると、地獄でくるしんでいる霊たちがすくわれるといいます。



三内丸山遺跡
三内丸山遺跡(青森県)が発見されたことによて、そこの縄文人たちの主食が、栗を中心とした植物と魚を中心とした動物であることがわかりました。丈一尺になるようなタイの骨とともに漆をぬった木製の大きな皿もみつかり、皿にのせたタイの刺し身に舌鼓をうっていた縄文人が想像できます。日本料理の粋は刺し身にきわまるとおもわれ、日本料理もまた縄文の延長上にあり、日本文化の根幹に縄文文化が位置することがわかります。

縄文人は、すべての生きとし生けるものがこの世で末永く人間と共生していくとかんがえていたようです。たとえば貝塚は、人間の食料になった生きとし生けるものの魂をあの世におくり、再生をねがって供養した塚だとかんがえられます。今日でも、鰻供養、蟹供養、針供養、鞠供養など、さまざまな供養の風習が日本各地にみられ、これは、縄文時代の風習が今日につたわっていることをしめしています。
 
ここにあらわれた思想は共生と循環という思想です。自然は共生し循環しています。この原理に人間もしたがわざるをえません。このような世界観は、狩猟採集生活をいとなんでいたあらゆる石器時代人共通の世界観だったのかもしれません。地球環境を破壊しつくす現代の開発の文明を共生と循環に転換できるかどうか? 人類の未来がここにかかっています。






わたしはかつて、青森県の三内丸山遺跡を見学し、このような大きな村が縄文時代にすでにあり、「狩猟栽培」生活をしながらくらしていた人々がいたことをしってとてもおどろきました。縄文時代のイメージが一変しました。

現在、日本列島のいたるところで縄文遺跡が数多く発掘されて、その狩猟採集文化(あるいは狩猟栽培文化)の様子があきらかになり、世界でも有数な高度な文化が日本でさかえていたことがわかってきました。もっともふるい土器は約1万2千年前のものであり、メソポタミア地方のもっともふる土器は約8千年前ですから、日本の土器はそれよりも4千年もふるいことになります。

この縄文文化は日本の基層文化であり、日本の深層といってもよいでしょう。日本が、朝鮮や中国の影響をうけるのは弥生時代以後です。

したがって日本文化は、縄文的なものが深層にあり、そのうえに弥生的なものがかさなってなりたっているとかんがえられ、そして意外にも、深層にある縄文文化が、現代の日本人の生活や行動におおきく作用しているのではないか? このような仮説がたてられます。

たとえば、葬式仏教、神仏習合、供養の風習、各地の祭り、正月と盆、お墓参り、日本料理、日本語・・・

それではその縄文文化をどのように探究すればよいのか?

第1に、縄文遺跡の発掘・調査という方法があります。考古学者や人類学者がやっており、本書『日本の深層』でもその成果が活用されています。第2に、縄文文化の痕跡を色濃くのこすとかんがえられる東北文化を調査することがあげられます。梅原猛さんが今回おこなった方法です。第3に、縄文文化を伝承しているとかんがえられるアイヌ文化を調査することがあります。本書でもいくらか紹介されています。

  1. 縄文遺跡
  2. 東北文化
  3. アイヌ文化

東北地方は、大和朝廷が成立してからも最後まで抵抗をつづけた地域です。縄文時代には、日本列島の全域に人々がくらしていましたが、弥生時代になると断続的に渡来人があらわれ、やがて大和王権〜大和朝廷の成立とともに西日本一帯は支配・統一されました(ただし「熊襲」や「隼人」と九州でよばれた人々は縄文時代人の遺民だったのではないかとかんがえられます)。

東北地方も徐々に侵略されましたが西日本にくらべてそれがおそかった分、縄文文化が比較的のこったということは容易に想像できます。このようなこともあってでしょう、東北地方は、故郷という言葉が日本人にとってもっともふさわしい地域になっています。したがって上記の第2の方法が有効なわけです。

たとえば縄文文化の痕跡には以下のようなものがみられます。

宮城県にある宮殿寺という曹洞宗の寺では、寺の正面に、サークル状に平たい石がならんでおり、このサークルを葬式のときにまわるといいます。これは、縄文遺跡のストーンサークルを連想させます。

日本人は、死者のことを「仏」といいます。本来は、修業した人が仏になれるのであって死ぬだけで簡単に仏にはなれません。また日本人は、物がこわれると「お釈迦になる」といいます。物にも魂があって、こわれると(死ぬと)あの世にいくとおもっているらしいです。

本来の仏教では輪廻転生をときますが、日本では、死者は、あの世でくらしていて、正月と盆と彼岸(春・秋)の年4回こちらの世界に一時的にかえってくると信じています(日本人は、いっせいに帰郷したり、墓参りをしたりします)。独特の「あの世観」がみられます。

日本の仏教は、大陸の本来の仏教とはことなる要素を多数もっており、本来の姿ではなくなっています。縄文文化の影響が色濃くみられます。大陸の本来の仏教は、今いきている人が修業をするための教えですが、日本では「葬式仏教」になっています。葬式仏教にどうしてなったのか、本書をよんでよくわかりました。

日本では、縄文時代からつづく伝統的な死者の送りと死者の供養が、仏教の形式をつかって今でもおこなわれているのです。

縄文人は、死と死後の世界についておおきな関心をもっていました。死んだらどうなるのか? 死後の世界はどうなっているのだろう? できれば地獄にはいきたくない。しかし現代の日本人も、葬式仏教で死者をおくりだし、その後、今ごろどうしているだろう? 元気にやっているだろうか? などと想像したりしています。

日本の歴史を概観すると、技術・経済・制度・政権などはたしかに変化してきていますが、精神文化(習俗や宗教など)は変わりにくく、依然として過去をひきずっているとみることもできます。

縄文文化の世界観はひとことでいうと「共生と循環」ということです。これは、大陸の文明のそれとはことなるものであり、文明のパターンがことなります。人間の歴史(世界史)はこれまでは、大陸の文明を基軸にしてえがかれてきましたが、かんがえなおさなければなりません。大陸の文明が発達しているときに、同時並行的に別の文明が日本では発達していました。ことなるパターンをパラレルにみていくことがこれからは必要です。

以上のように、深層文化をさぐることはとても興味ぶかいことであり重要なことです。深層の世界は、まるで龍泉洞の地底湖のように、底しれぬひろがりをもっています。あなたの深層意識があなたの人生におおきく作用しているように、日本の深層が現代の日本におおきく作用し、また未来にも作用していくことはまちがいありません。


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▼ 参考文献