空白をうめるように進化がおこります。ヒトとサルは共通の祖先をもつことがあきらかになりました。類比法あるいは類推という方法が役立ちます。
『ダーウィン進化論』(ニュートンムック)は進化論の入門書です。多数のイラストをつかって解説しているので初心者にもよくわかります。


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進化論の誕生
西洋でかつて、聖書のおしえによる「創造説」がうけいれられていた時代には、「すべての生物は神によってつくられ、生物は永遠にかわらない」とかんがえられていました。

しかし18世紀になり近代博物学が発展するとともにそのような創造説に疑問をもつ学者があらわれました。ジョルジュ=ビュフォン(1707〜1788)やジャン=ラマルクらは生物は進化しているとかんがえ、ビュフォンはその要因として熱をあげ、地球レベルでの進化をとなえました。ラマルクは、著書『動物哲学』(1809)のなかで、生物は、下等なものから高等なものへ進化していくととき、一生のあいだに生物が獲得した変化は次の代につたえられて蓄積されていくと説明しました。現代の言葉でいう「獲得形質の遺伝」という仮説です。

そして『動物哲学』から半世紀後の1859年、イギリスの博物学者チャールズ=ダーウィン(1809〜1882)が『種の起源』を発表しました。彼は、ビーグル号による世界周航の際にあつめた資料にもとづいて生物は進化していることをあきらかにしました。また家畜や栽培植物の育種が、生物にみられるさまざまな変異のなかからつごうのよい性質を人間がえらぶこと(人為選択)によっておこなわれていることに注目し、これとおなじようなことが自然界でもおこるとかんがえました(自然選択)。ダーウィンは、生物にはそもそも変異性があり、変異した子孫のうち生存に有利な性質をもつものが生きのこり、その性質が子孫につたわることにより有利な変異が蓄積され、環境により適応した形へと生物は進化していくという仮説をとなえました。またこのような進化論により、人間だけが特別な存在であることを否定し、人間とサルは共通の祖先をもつとかんがえました。

人間とサルが共通の祖先をもつということは、それまでの人々の常識ではかんがえられなかったことであり、したがってダーウィンの『種の起源』は社会的にも多大な影響をあたえることになりました。

生物の進化をしめす決定的な証拠は化石であり、時間のながれにそって化石をならべてみれば生物の進化がわかります。また現世生物におけることなる系統の生物間にみられる類似性(たがいに似ている生物)は、おなじ祖先からでてきた子孫ではないかと想像できます(類推できます)。

また起源をさかのぼるとおなじところにたどりつきますが、現在はちがう機能をもつようになった器官や構造はそれぞれ「相同」の関係にあるといいます。たとえば脊椎動物の付属肢(足)はその例であり、魚の胸びれ、鳥やコウモリの翼、ウマの前肢、ヒトの腕、クジラの胸びれはすべて起源がおなじです。

また分子生物学は、DNA(デオキシリボ核酸)による遺伝のしくみをあきらかにしました。これは、地球上のすべての生物にみられる共通性であり、あらゆる生物が起源をおなじくし、もとひとつのものから分化・生成してきたものであるということをしめしています。

このような観点から、化石や現生生物をみなおしてみると進化論がわかりやすくなるとおもいます。とくに、さまざまな生物間にみられる類似性に注目することが大事です。



生物進化の概要
生物のもつ形質を子孫につたえていくのは DNA(デオキシリボ核酸)です。DNA 上にきざみこまれた遺伝情報は、もうひとつの拡散である RNA(リボ核酸)によって転写、翻訳されます。この RNA のはこぶ情報によって合成されたタンパク質が、主体反応をつかさどる酵素や体をつくる成分などとしてはたらくことによってすべての遺伝形質がきまります。

このような遺伝機構が最初に確立したときに生物の進化がはじまりました。これは生命の起源といってもよく、今から約38億年まえ(地球誕生から約8億年たったころ)に原始地球の海のなかでおこったと想像されています。最初の生命は、核膜をもたない原核細胞とよばれる単細胞でした。

そしてこの原核細胞が進化して次の段階である真核細胞があらわれるまでに約20億年かかったことが化石の記録から推測されています。

生物学では、生物の分類として、「五界説」という分類法が一般的に採用されています。これは、原核生物界・原生生物界・菌界・植物界・動物界からなり、それぞれの「界」は「門」で細分され、たとえば動物界は、海綿動物門・軟体動物門・節足動物門など、およそ30の門に分類されます。

約6億年前、古生代の最初のカンブリア紀の直前に、脊椎動物をのぞく動物のほとんどの門がいっせいにあらわれました。最初の爆発的な進化がおこり、「カンブリア爆発」とよばれます。これらの門のほとんどは、そのなかで個々の種は交代しながらも今日までつづいています。このころに、左右相称(おおくの動物門)、放射相称(クラゲやウミユリの仲間)、前後に体節をくりかえすもの(環形動物、節足動物)などの基本的な型がでそろいました。

その後、最初に上陸をはたしたのは貧弱なシダの仲間の植物でした。動物のなかで最初に陸上にあがったのはクモやムカデのような無脊椎動物だったとかんがえられます。それらとならんで肺魚の仲間の魚類が上陸してきました。古生代デボン紀後期のことでした。

生物は、特有のすみ場所をそれぞれもっており、そのすみ場所を「ニッチ(生態学的地位)」といい、空白のニッチがあると、それをうめるようにしてあたらしい生物が進化するとかんがえられています。水中から陸上へと進化した生物は、つぎに空中にのりだしました。翼竜・鳥類・昆虫などです。

生物は進化しますが一方で絶滅もあります。化石がしめす進化の歴史には、ある時期に一群の生物が突然きえうせるという現象がみられます。たとえば古生代末期の三葉虫類やフズリナ(有孔虫の仲間)、中生代末期の恐竜とアンモナイトなどがそうです。

中生代末期に恐竜がほろびると、それによって生じた空白のニッチをうめるように哺乳類が進化しました。絶滅が、つぎの進化をもたらします。哺乳類の祖先は中生代初期にはすでにあらわれていましたが森の奥でくらす小型動物にすぎませんでした。その後、中生代末期から新生代になると、ひらけたニッチにむかってさまざまに分化しながら、それぞれの環境に適応していきました。このような進化を「適応放散」といいます。こうして哺乳類は短期間のうちにおおきく多様化しました。


仮説をたてる
ダーウィンは1831年に、測量船ビーグル号にのりこみ、5年をかけて世界を一周しました。そのなかで、ガラパゴス諸島での生物の観察から種の変化に関する最初のヒントをえ、とくに、フィンチという鳥の観察からおおきな成果をえました。ガラパゴス諸島には13種のフィンチが生息し、これらはみな基本的には似ていますが、食性・樹上性・地上性などの習性のちがいにより、くちばしの形は異なります。似ているけれども異なるということに気がつくことが重要です。これらの差異は遺伝的な変異により生じ、それぞれのフィンチが、それぞれの場所にわかれて交配をくりかえすうちに、環境に適応した有利な変異をもつフィンチだけが生きのこったということをしめすとかんがえました。

ダーウィンは、家畜のイヌやハト、栽培植物などでは、小さな差の選択(人為選択)の結果、異なる品種がつくられることから、似たような選択が自然界でもおこって差異がかさなり、環境への適応のたかいものへと進化がおこるとかんがえました。このような仮説を「自然選択説」といいます。

しかしダーウィンの時代には、遺伝の法則に関することは何もわかっていなかったので、どのようにして小さな変異が生じるのかについては説明できませんでした。

1953年、ジェームズ=ワトソンとフランシス=クリックが DNA(デオキシリボ核酸)の二重らせんモデル提案したのがきっかけになって分子生物学がさかんになります。そして分子生物学の成果をふまえて、「遺伝子 DNA の突然変異→変異した個体間での競争→自然選択」という仕組みによって進化がおこるという仮説がとなえられました。これは「総合説(ネオダーウィニズム)」といわれます。

この仮説では、進化は、小さな突然変異(遺伝的変異)のつみかさねにより徐々におこるとします。しかしこれでは、小さな進化(変化)は説明できても、カンブリア爆発や、魚類から両生類へというような大進化は説明できません。そこで古生物学者や人類学者を中心にして、「生物は、ながい停滞の時期をへて、あるとき急激にかわる」という仮説が提案されています。

  • 仮説1:進化は、小さな突然変異(遺伝的変異)のつみかさねにより徐々におこる。
  • 仮説2:生物は、ながい停滞の時期をへて、あるとき急激にかわる。