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(交差法で立体視ができます)
およそ150年間の日本の近代化の歴史をみることができます。わたしたちの生活様式はおおきくかわりました。工業化は、情報産業社会のための基盤づくりでした。(2019.1.15 更新)
明治150年記念特別展「日本を変えた千の技術博」が国立科学博物館で開催されています(注1)。重要文化財や産業遺産など、600点をこえる貴重な資料をみながら、日本の科学技術の150年間のあゆみをたどるとともに、科学技術の未来をかんがえるという企画です。

ステレオ写真はいずれも交差法で立体視ができます。
立体視のやり方 - ステレオグラムとステレオ写真 -


第1展示室 明治維新 科学と技術で世が変わる
第2展示室 科学で変える
第3展示室 くらしを変える技術
第4展示室 産業を変える技術
第5展示室 モノを変える技術
第6展示室 産業を変える技術
第7展示室 街づくりを変える技術
第8展示室 コミュニケーションを変える技術



第1展示室 明治維新 科学と技術で世が変わる

1868年、明治時代がはじまりました。政情はまだ安定していませんでしたが明治政府は、鉱山と造船所を国営化、鉄道や通信などのインフラ整備、西洋医学の導入と普及、欧米にならった学校・教育制度の構築など、国家の近代化に着手していきます。当初は、あらゆる分野において欧米の技術者の指導をあおぎましたが、明治中頃になると、日本人みずからがほとんどの産業で研究・開発をおこなえるようになりました。


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福沢諭吉著『訓蒙窮理図解』(改正再刻版)
『学問のすすめ』でしられる福沢諭吉は、江戸幕府の役人としてアメリカを視察した経験をもつなど、西洋の社会状況に通じていました。欧米の技術文明の基礎には「窮理」(きゅうり:いまでいう物理学)があるとかんがえ、日本人の科学に関する理解をふかめるために『訓蒙窮理図解』(くんもうきゅうりずかい)を明治元年に出版しました。とても話題になり、パロディ本まで登場するほどでした。 



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平野富二の活版印刷機(1885年頃)
1869(明治2)年に、長崎製鉄所付属の活版伝習所が設立され、翌年には、長崎新町に活版所を創設して活字の製造と印刷業がはじまりました。この事業の志をうけついだのが平野富二でした。近代文明にとって印刷技術は重要であり、活版印刷による政府の通達や新聞の発行などがはじまりました。



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ガラ紡(昭和初期)
臥雲辰致(がうんたっち、1842〜1900)は1876年(明治9)に、木綿糸を自動でつむぐ紡績機械を発明しました。稼働中の音から「ガラ紡」とよばれます。できた糸の風合いがこのまれ、機械の構造が簡単であることから、この方式は国内外で今でもつかわれています。



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第一国立銀行
(1872(明治5)年、1/50 建築模型)
もっとも初期の西洋建築のひとつです。バルコニーやガラス窓など、それまでの日本建築にはなかった洋風建築の要素がとりいれられています。見なれない形から東京の名所になりました。 



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日本で3番目に設置された乗用エレベーター
(オーチス社/製(イギリス))
日本銀行本店(日本橋)と三菱3号館(丸の内)についで国内3番目に導入された最古級の乗用エレベーターです。1901(明治34)年に、日本生命保険本店(大阪市)に設置されました。 



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磁石式交換機
(50回線用、明治中期〜昭和期)
加入者からの信号で、各加入者に対応している上部のふたが自動的にひらきます。交換手がプラグをさしこみ、相手先の電話番号を加入者にたずね、通話先をよびだします。先方がでたら相互の回線をつなぎます。双方で話ができます。 




第2展示室 科学で変える

近代化のためには正確な時計が必要でした。また磁石や磁気は、非常にひろい分野で材料や部品としてつかわれています。ここでは、日本人技術者が開発した時計と磁気材料などをみます。


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左:水晶振動子の切り出し模型
右:水晶時計の表示部(国産第1号、1937(昭和12)年)
水晶を板状にきりだして両面に電圧をくわえると結晶に変形が生じます。この現象は「逆圧電効果」とよばれ、これを応用すると正確な発振器をつくることができます。1932(昭和7)年、古賀逸策は、温度が変化しても特性の変化しないきりだし方を発見し、周波数の変動が従来のものにくらべて2桁もちいさい水晶振動子を実現、これをもちいた標準時計を開発しました。古賀の方式はその後、ほとんどの電子機器のなかでつかわれるようになりました。



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上:KS磁石鋼、下:新KS磁石鋼
KS磁石鋼は、1916(大正5)年に本多光太郎らが発明した当時世界最強の永久磁石です。命名は、研究費を寄付した住友吉左右衛門に由来します。本多光太郎らは、さらに強力な新KS磁石鋼を開発、これも当時世界最強をほこり、日本の磁石研究は世界をリードしていました。



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エジソン クラスM蓄音機
(1890(明治23)年頃)
エジソンが1890年に、アメリカ公使を通じて明治天皇に献上した蝋管蓄音機です。エジソン最初の照葉蓄音機のひとつであり、バッテリーによる電動式で、かきこみと消去ができます。

 


第3展示室 くらしを変える技術

現代の社会は電気なしではなりたちません。電気が通じないと、水道やガス、交通も機能しなくなります。照明の登場は、人々の生活と労働を一変させました。ここでは、発電・照明・家庭電化製品の歴史をたどります。


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トムソン・ハウストン・アーク灯用発電機
(1889(明治22)年頃)
大阪電燈の最初の火力発電所である西道頓堀発電所の操業時に使用された発電機です。大阪電燈は、米国・GE社製の60ヘルツ三相交流発電機を導入し、一方、東京電燈は、ドイツ・AEG社製の50ヘルツ三相交流発電機を導入しました。これらが基礎となり、現在みられるような、西日本では60ヘルツに、東日本では50ヘルツに次第に統一されていきました。



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攪拌式電気洗濯機 ソーラーA型
(1930(昭和5)年)
アメリカのハーレーマシン社からの技術導入により製造された国産第一号の電気洗濯機です。

 


第4展示室 産業を変える技術

イギリスで18世紀後半にはじまった産業革命は、蒸気の力をつかって鉄の機械による大量生産を可能にしました。明治政府は蒸気力を諸産業にとりいれ、おおきな困難をともないながらも産業の大規模化にとりくんでいきます。ここでは、動力・自動車・鉄道・航空機・船舶といった大型産業の歴史をふりかえります。


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マツダ コスモスポーツ
(1967(昭和42)年)
東洋工業が1967年に発売したロータリーエンジン搭載の乗用車であり、耐久性のある実用的なロータリーエンジンをはじめて搭載したとして世界をおどろかせました。

 


第5展示室 モノを変える技術

化学技術も導入されました。天然の物質を積極的に改変して利用するようになります。石炭の利用や製鉄は近代化の基礎となりました。あるいは窒素から肥料をつくって食料が増産されたり、石油などの資源から、合成樹脂や合成繊維などの新素材をつくりだしました。ここでは、石炭・製鉄・アンモニア合成・合成樹脂・合成繊維の歴史をたどります。


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セルロイドの石鹸箱(戦後
セルロイドは、植物繊維のセルロースを化学処理してつくられる世界初の熱可塑性の合成樹脂です。アメリカで1868年に発明され、20世紀初めには日本でも製造がはじまり、1937(昭和12)年には、日本のセルロイド生産量は世界一となりました。かつては、いろいろなものがセルロイドでつくられましたが、現在では、高級メガネフレーム、ギターのピックなどかぎられたものにつかわれています。

 


第6展示室 生命に関わる技術

蚕や稲の品種改良に科学的な方法がといいれられて養蚕や稲作がおおきく進歩しました。蚕の品種改良・稲の品種改良・天然物化学についてみていきます。


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カイコ模型(明治期)
古来より人間は、植物や動物を利用してくらしてきました。飼育動物カイコの品種改良は経験と努力によりすすめられてきましたが、明治時代になると、あたらしい生物学の知識と技術が導入されて品種改良は革新的に進歩しました。
 



第7展示室 街づくりを変える技術

地震・台風・水害など、たびかさなる自然災害に日本人はなやまされてきました。日本では耐震技術や気象観測技術が発達し、地震国でありながら高層建築を可能にしたり、防災へのとりくみがすすみました。ここでは、耐震建築や重機、レーダーなどについてふりかえります。


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小松ブルドーザー G40(小松1型均土機)
(1943(昭和18)年)
ガソリン機関トラクターの前方に、押土用のブレードを装着して改良してつくられた国産初のブルドーザーです。第2次世界大戦中、飛行場建設などのために国からの要請にこたえて開発されました。本機は、フィリピンで稼働し、終戦後は、アメリカ軍に接収されて海中に投棄されましたが、その後ひきあげられ、まだ稼働することがわかったのでオーストラリアの農場でながいあいだつかわれていました。その後、コマツの技術者により発見されて35年ぶりに日本にもどりました。




第8展示室 コミュニケーションを変える技術

とおくにいる人に瞬時に情報をつたえることができる。昔の人にとっては想像もできなかったことが、電気通信技術の開発により可能になりました。19世紀末に有線電話がはじまり、20世紀にはいってラジオ・テレビなどの技術がメディアをつくり、電磁気的に情報を記録する技術や、カメラ・計算機・プレーヤーなども発達、わたしたちのコミュニケーションの方法はおおきく変革しました。ここでは、電話・無線通信・ラジオ・ファクシミリ・光学機器・X線と超音波診断・テレビ・携帯プレーヤー・計算機・情報処理・日本語入力などの歴史をふりかえります。 


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八木・宇田アンテナ(1930(昭和5)年)
八木・宇田アンテナをはじめて実用化した極超短波無線機です。アンテナとは、効率よく電波を放出し、逆に電波を受信する装置のことであり、八木・宇田アンテナは、短波および超短波用のアンテナで、八木秀次や宇田新太郎らが世界ではじめて発明しました。日本国内ではほとんどみとめられませんでしたが、第2次世界大戦中に「YAGI arrays」として連合軍はつかっていました。戦後は、テレビアンテナなどとして世界に普及しました。



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HITAC5020(1964(昭和39)年)
我が国初の大型汎用電子計算機です。京都大学や電電公社(現NTT)・東京大学など、国内のおおくの機関に導入されました。



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ソニー ウォークマン
(一号機、1979(昭和54)年)
世界初の携帯型ステレオカセットプレーヤーです。音楽を、どこでも個人でたのしむことができるようになり、リスニングの形態をかえ、ひとつの文化をうみだしました。



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CDプレーヤー CDP-101
(ソニー、1982(昭和57)年)
世界初のCDプレーヤーです。それまでのアナログレコードにかわりデジタル音源を再生する方式にかわりました。






今回の特別展では、日本の近代化の歴史を実際の生産品をみながらふりかえることができました。展示品はどれも、日本の近代化を「証言」するものばかりでした。

日本人が発明・開発したおもなものとしては以下のようなものが紹介されていました。ガラ紡(臥雲辰致、1876)、KS鋼(本多光太郎ら、1916)・MK鋼(三島徳七)・新KS鋼(本多光太郎ら)、ウルシオール(眞島利行、1918)、八木・宇田アンテナ(八木秀次・宇田新太郎、1926)、マグネトロン(岡部金治郎、1927)、フェライト(加藤与五郎・武井武、1930)、水晶振動子(古賀逸策、1932)、マイクロ波4GHz帯用進行波管4W75A(日本電信電話公社、1955)、ニコンF(ニコン、1959)、新幹線(国有鉄道ほか、1964)、クオーツ腕時計(セイコー、1969)、ロータリーエンジン車(東洋工業、1967)、世界最大タンカー(石川島播磨重工業、1971)、CVCCエンジン(本田技研工業、1970年代)、ウォークマン(ソニー、1979)、ネオジム磁石(佐川眞人、1982)、CDプレーヤー(ソニー、1982)、エンタテイメントロボットAIBO(ソニー、1999)、地球シミュレータ(海洋研究開発機構、2002)、光海底ケーブルSC500シリーズ(OCC、2010)、ほか多数。

およそ150年前、日本は、西ヨーロッパの最新の科学技術を大規模に導入しはじめました。西ヨーロッパへ留学生もおくりこみました。近代化は着実にすすみ、30年〜40年後には、世界レベルに達する分野がいくつもあらわれはじめました。このことには、当時の日本の学生が非常に優秀だったことがおおきく寄与しています。ただしこの背景には、平和がながくつづいた江戸時代にすでにひろく教育が普及していて(識字率も非常にたかくて)、日本の教育・研究のポテンシャルがとてもたかかったことがあったことをわすれてはなりません。

「日本人はまじめで、西欧の科学技術をひたすらまなんで真似をした」というのではなくて、最初期こそ西ヨーロッパからまなびましたが、しばらくしたら自力で「運転」できるようになり、その後は、西ヨーロッパと日本は相互に共鳴しながら近代化がすすんだとみたほうがよいでしょう。実際、本展をみればわかるように、日本人による世界的な発明や世界をリードする製品が結構うみだされています。全世界をみわたせば、西ヨーロッパと日本には並行現象があったとみなせます。

こうして近代化は、わたしたちの生活様式をおおきくかえました。第一に、居住環境がかわりました。かつては、暑さ寒さを肌で感じていましたが、今ではエアコンがあります。大都市を中心にして人工的環境がひろがり、自然環境から人々はとおざかりました。

電気・ガス・水道・・・、生活インフラが日本中で構築されました。テレビ・電気冷蔵庫・洗濯機・自動炊飯器・電話機・・・・。わたしたちはあらゆるものを手にいれました。

そして日本ではすでに物があふれています。ひととおりの物を誰もがもっています。貧富の差は依然としてありますが、それは、技術の問題ではなくて政治の問題になりました。

しかしひととおりの物がそろった今、これからはどうすればよいのか? あらたな問題が生じています。ぼうっと漠然と生きているわけにはいきません。これまでは、物質的にゆたかになるのが目標でした。物でみたされるまではそれにむかって頑張るのが人生でした。しかし目標が達成されたら、「人生の課題を設定するにはどうすればよいか?」などという、かんがえてみればきわめて初歩的・基本的なことからやらざるをえない状況が生じています。このようなことのために研修会も開催されています。

近代化とは、いいかえれば工業化でした。大学では、工学部がおもに活躍しました。しかし1990年代になると情報産業が勃興してきました。工業社会から情報産業社会への大転換がおこりはじめました。

けっきょく工業化とは、情報産業のためのインフラづくりだったのだとかんがえられます。これからながくづっとつづく情報産業社会のための基盤を整備していたということです。ハードからソフトへ、工業技術とはことなるあらたな情報技術がこれからは必要です。

この仮説がただしいとするならば、いつまでも工業にこだわらないほうがよいということになります。機械や機器におぼれることなく、情報処理能力を誰もが身につけ、一方で、情報産業社会をそだてる努力をしなければなりません。

そのためには一般論として、独創性・創造性が重要だとさけばれますが、現実は、アメリカなどに圧倒されて日本の企業には元気がありません。1980年代までは、日本人による発明や商品開発がすさまじかっただけに、以前とくらべると現状は、きわめてきびしいといわざるをえません。

そこで、これからの情報産業社会のなかで、日本人としては芸術性をいかしていくというのはどうでしょうか?

たとえば江戸時代の日本の工芸品は世界最高水準にありました。日本美術のレベルのたかさはうたがう余地がありません。あるいは日本の仏像はまさに芸術品です。わたしはネパール・インド・タイで数々の仏像をみてきましたが、にっこりしていて したしみがあるのはよいのですが、マンガにでてくるキャラクターのようなものがおおかったです。日本には、縄文時代以来の美の伝統があります。芸術的なセンスのたかさは世界有数です。

およそ150年の産業技術史をふりかえってみると未来のことがおのずと気になってきます。工業の時代はおわりました。あらためて、日本の歴史・伝統をとらえなおし、日本人の得意な方法であらたな社会をきずいていくべきでしょう。



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▼ 注1
会期:2018年10月30日(火)〜2019年3月3日(日)
会場:国立科学博物館

▼ 会場マップ
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