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東洋文庫ミュージアム 企画展会場
(平行法で立体視ができます)
歴史上の人物の虚像と実像にせまっています。政権と時代によって人物の評価は変わります。人物の背後にあるもっと大きなものに気がつくことが大事です。
「悪人か、ヒーローか」
いったい誰がきめたのでしょうか?

東京都文京区にある東洋文庫ミュージアムにて企画展が開催されています(注)。歴史をみていくと、悪人が一転してヒーローになったり、ヒーローがひっくりかえって悪人になったりする例がすくなくありません。さまざまな視点や立場によって悪人あるいはヒーローにされた歴史上の人物の虚像と実像について東洋文庫の歴史資料からせまります。

ステレオ写真はいずれも平行法で立体視ができます。
立体視のやり方 - ステレオグラムとステレオ写真 -



始皇帝:中国史上もっとも有名な男は暴君?

始皇帝(前259-前210)がおさめた秦のつぎの王朝である前漢の時代に書かれた歴史書『史記』(司馬遷)によると、始皇帝は、万里の長城をはじめとするさまざまな土木工事をおこなったことや、法による国の統治をしたことなどが記録されており、暴君であるという位置づけはことさらされていません。しかし後世になると、儒者による評価から悪人のイメージがつけられました。

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史記 秦始皇本紀



劉邦と呂后:漢の始祖と怖すぎる皇后?

『史記』によると、劉邦(りゅうほう)は敵を殺戮せず、すぐれた部下があつまってきて、寛容で包容力のある大人物でした。ライバル項羽をたおして中国を統一、漢の時代を創出しました。しかしその後、つぎつぎに重臣を粛正し、劉氏一族のみが皇帝の位につけるよう遺言をのこしました。

また皇后の呂雉(りょち)は中国三大悪女の一人であるといわれます。陰惨なやり方で劉邦の側室を殺害、劉邦なきあとはみずからの親戚を要職につけ、前漢を支配します。のちの『後漢書』では、呂雉を悪しき前例として、皇后の地位を剥奪しました。

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後漢書 光武帝紀



蘇我入鹿:これぞ日本の悪人?

日本最初の国史書『日本書紀』によると、645年6月、天皇の補佐にあたる大臣であった蘇我入鹿(そがのいるか)が天皇の御前で殺害されました。皇位の継承に対して策略し、おもうままに権力をふるったとされ、「蘇我氏=悪」というイメージを根付かせました。

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日本書紀



平清盛:すぎた強さは悪とされる?

「おごれる者は久しからず」
『平家物語』(鎌倉時代、13世紀)の冒頭の一文です。平清盛は、横暴や傲慢のイメージでかたられます。猛々しい言動は悪とされ、一族が滅亡にいたった原因とむすびつけられました。しかし「悪人清盛」は、鎌倉幕府による物語上の創作だったのかもしれません。

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平家物語



足利尊氏と楠木正成:時代に翻弄される悪人とヒーロー

『太平記』は、南北朝時代(1336-1392年)を中心に、鎌倉幕府の終焉から室町時代初期までの半世紀(1318-1368年頃)をえがいた軍記物語です。鎌倉幕府を倒幕しようともくろむ後醍醐天皇、後醍醐天皇に荷担する楠木正成、後醍醐天皇に一時はとりたてられながらも後に対立し、天皇を追放して室町幕府をひらいた足利尊氏が代表的な登場人物です。

水戸光圀により 17 世紀半ばに編纂がはじまり 1906 年に完成した『大日本史』では、楠木正成は天皇をささえた忠臣、対する足利尊氏は天皇に反逆した逆賊とされました。『大日本史』は尊皇論にもとづいて書かれていました。明治維新後、皇国建設にともない両者の対比はいっそう強化され、このような評価は 20 世紀なかばまでつよく支持されました。

鎌倉にある足利尊氏の墓は傷だらけでなかばこわれていました。遠足などできた小学生たちが、「この憎らしい尊氏奴が」といって石をなげつけたり足蹴にしたり踏んづけたりしていたためです。とおくからそれをながめていた学校の先生はうっすらと微笑みをうかべていました。この墓をみた尊氏の末裔は、「わが心を云い知れぬ悲しみに浸した」とつたえています。おそろしや小学生。

しかし今日、歴史家のあいだで評価が変わりました。足利尊氏は、心つよくして畏怖の色がなく、慈悲はその転生で人をにくむことを知らず、こころ広大にして物をおしむ気持ちがなく、謀反した者でも降伏してくるとあたたかくむかえ、寛大さが諸将の心をつかみ人物が大きかったといいます。また後醍醐天皇の冥福をいのるために天龍寺を建立しました。尊氏は、室町時代をひらいたヒーローになりました。


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太平記(左)と大日本史(右)



織田信長:天性残忍か開拓者か

織田信長(1534-1582年)に関する史料として代表的なものに家臣がしるした『信長公記』があります。これに脚色をくわえたのが『信長記』であり、信憑性がうたがわれる記述は多いですが、桶狭間や長篠での戦い方、比叡山の焼き討ち、家臣たちとのエピソードなど、後世にかたられる信長のイメージ形成に大きな役割をはたしました。

江戸時代の中頃、新井白石が、朱子学の思想にもとづいて日本の政治体制史をまとめた『読史余論』では、信長を「天性残忍」と評し、信長の不幸な最後は、みずからの行動がまねいた結果であるときびしい見解をしめしました。

しかし今日では、名だたる武将とたたかい、室町幕府を滅亡させ、天下統一にむけて苛烈ないきおいでつきすすんだ信長の生きざまがさまざまな分野でとりあげられ、参考にされています。今では、「天性残忍」の悪人というよりも、ふるい時代をおわらせ、あたらしい時代をきりひらいたヒーローとしてかたられます。

信長は、今日のような時代の大転換期ではヒーローと評されます。しかし将来、あたらしい体制や文化が確立して秩序ある時代(安定期)になったら、「天性残忍」の悪人とふたたび評されるかもしれません。『読史余論』が書かれたのは江戸時代中期、幕藩体制が完全に確立し、時代の安定期にはいっていたことをわすれてはなりません。

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信長記




このほかにも、則天武后、徽宗皇帝、鄭成功、春日局、鼠小僧次郎吉、スレイマン1世、スルタン、ナポレオンなどについて展示・解説しています。

これらをみればあきらかなように、書き手の立場によって歴史における善悪は変化します。「勝てば官軍、負ければ賊軍」ともいいます。

ふるい時代がおわってあたらしい国家が形成されると、何を善とし何を悪とするかの基準もあらたにきめられます。権力を支持する行為は善とされ、権力に反抗した行為は悪とみなされます。

たとえば江戸時代中期には、社会的な秩序の重要性をとく儒教、とりわけ朱子学が採用されました。これにより、「忠」(主君につくすこと)と「孝」(親をうやまい大切にすること)などの倫理道徳を軸とする善悪の判断基準が確立しました。

「忠」と「孝」のうち、朝鮮では「孝」をとくにおもんじたのに対し、日本ではとくに「忠」がおもんじられ、忠臣のなかからヒーローがうまれました。そしてこの評価基準は 20 世紀までつづきました。男子につける名前に、「忠」「忠男」「忠明」など、「忠」の文字がはいったものが多かったのはこのためです。

しかし時代はかわり、「忠」は評価基準ではなくなりました。今日では、あたらしい時代をきりひらく開拓者が評価されます。政権や時代が変われば評価基準も変わります。悪人がヒーローになり、ヒーローが悪人になります。

このように、人物の評価とは主観的なものであり、客観的なものではありません。それぞれの時代にそれぞれの権力が虚像をつくりあげます。それにまどわされることなく、人物の背後にあるものに気づき、人物の実像にせまることが実はとても大事です(図)。


180727 人物
図 人物の背後に気がつく




かつて、足利尊氏の墓をこわしていた小学生たちがいました。この行為も、当時の政権が刷り込み教育をおこなった結果にすぎないとかんがえられます。

今春、小学校で「道徳」が教科化されました。「善悪の判断」「誠実」「国や郷土を愛する態度」など、各学年でおしえる 19~22 の項目がさだめられました。

この「道徳」は教科のひとつであり、ほかの科目とならんで評価の対象になります。あたらしい通知表には「道徳」の評価欄がもうけられています。そこに何が書かれるか、親御さんにとっても気になるところでしょう。しかし評価とは? もうお気づきだとおもいます。現在の国家権力と時代的背景の存在に。

実際には今日は時代が大転換しつつあるときです。したがって現在の評価を気にする必要はありません。その理由は歴史にしめされているとおりです。


▼ 注
企画展「悪人か、ヒーローか」
会場:公益財団法人東洋文庫内 東洋文庫ミュージアム
会期:2018年6月6日〜2018年9月5日



▼ 参考文献
東洋文庫編集・発行『悪人か、ヒーローか』(時空をこえる本の旅 19, ガイドブック)2018年6月5日