狩野元信は、日本美術界に大きな影響をおよぼした狩野派の礎をきずきました。元信の方法は、現代の商品開発と経営にも通じます。
サントリー美術館・六本木開館10周年記念展「天下を治めた絵師 狩野元信」が開催されています(注)。

狩野元信(1477?~1559)は「狩野派」の2代目でした。狩野派とは、血縁関係でつながった狩野家を核とする絵師の専門家集団であり、室町時代より江戸時代末まで日本画壇の中心をになった日本絵画史上最大の画派でした。狩野元信は、戦国時代の乱世をいきぬき、傍流にすぎなかったこの画派を中央へとおしあげ、その繁栄の礎をきずきました。

展示室は4階からはじまります。

第1章「天下画工の長となる ― 障壁画の世界」
寺院からの発注による襖や壁貼付など、建築の一部にえがかれた障壁の数々が紹介されています。建物の建設と密接に関連した大規模事業であり、棟梁としての元信の力量がためされました。

第2章「名家に倣う ― 人々が憧れた巨匠たち」
南宋絵画や明代絵画など、中国の名品の数々です。元信も漢画制作の規範としました。

第3章「画体の確立 ― 真・行・草」
元信は三種の「画体」(スタイル)を確立しました。
  • 「真体」:緻密な構図と描線による描写
  • 「草体」:最もくずした描写
  • 「行体」:これらの中間にあたるもの

休憩ゾーンをへて階段で3階におります。

第4章「和漢を兼ねる」
元信は、それまでは土佐派が主流をになっていた「やまと絵」の領域にも進出します。そのために土佐派の娘と結婚しました。そして和漢融合のあらたな境地をひらきました。

第5章「信仰を描く」
それまでは絵仏師が手がけてきた仏画にもとりくみ、あたらしい風を仏画にふきこみました。元信がえがいた仏画の最高傑作「白衣観音像」(ボストン美術館所蔵)が里帰りしています。

第6章「パトロンの拡大」
幕府や寺院のみならず、禁裏や公家衆、上層町衆からの注文もうけるようにしました。注文主の拡大は狩野派の財政基盤を確立し、多角的な制作活動を発展させました。




このように元信の作品は、注文主の注文にこたえことによってうまれました。注文数がふえるとひとりではこなしきれないので弟子を養成、そして絵師集団「狩野派」を組織化しました。

弟子には、「真体」「行体」「草体」という「画体」をまなばせ、狩野派としてのスタイルを確立し、維持していきました。

また「やまと絵」の技術をとりいれ、和漢融合を実現しました。異質の統合による創作です。

そして多方面の注文主からの注文にこたえ、作品の種類を多様化するとともに、財力もたくわえました。経営の拡大です。

  • 組織化
  • スタイルの確立
  • 異質の統合
  • 経営の拡大

このように、元信は画家であるだけでなくプロデューサーでもあったのです。そして彼の "事業" をつらぬく基本的な精神は、注文主の希望に応じることであり、時代のニーズにこたえることでした。

誰にでも、自分のやりたいことがあるでしょう。しかし事業はニーズにこたえるものでなくてはなりません。それはあくまでも仕事であって、趣味ではありません。

このようにみてくると、元信の狩野派は、運慶の仏師工房とやり方が似ているではないですか。わたしは先日、特別展「運慶」(東京国立博物館)をみました。運慶も、平安時代から鎌倉時代へという、時代の転換期に活躍しました。時間と空間をこえた類似点をみとめることができます。時代の転換期には人材が輩出するとよくいいますが、そのようなことをこえて、歴史のダイナミクスを感じざるをえません。 

あるいは先日、NHK・Eテレ「日曜美術館」をみていたら、数々の宮﨑駿監督作品を生みだしてきている株式会社スタジオジブリのプロデューサー・鈴木敏夫さんが出演していました。鈴木さんによると、元信のやり方は、スタジオジブリのやり方とよく似ているというのです。スタジオジブリも、多数のスタッフがいて組織として仕事をしているのです。

それどころか、現代の企業経営者の多くが元信らの方法に共感するのではないでしょうか。現今も、工業社会から情報産業社会へという、時代の転換期です。元信らの方法は過去のものでは決してありません。

芸術の話が経営の話になってきて、くだらないとおもう人がいるかもしれません。しかし狩野派が、約 400 年にもわたって日本の画壇をリードし、日本美術史に絶大な影響をあたえたという事実を無視することはできないのです。 


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▼ 注
会場:サントリー美術館
会期:2017年9月16日~11月5日