問題解決のためには、分析的研究のまえに仮説法が役立ちます。具体的に問題を解決していくことの方が重要です。
NHK・BSプレミアム「フランケンシュタインの誘惑 科学史 闇の事件簿」で「ビタミン×戦争×森鴎外」を放送していました(注1)。脚気にかかわる物語です。

脚気は、結核とならぶ国民病としてかつておそれられた原因不明の病気でした。明治になってから大流行し、とくに軍隊がくるしめられました。当時は、陸軍軍医・森林太郎(森鴎外の本名)ら東京帝国大学医学部出身者たちを中心に、脚気は伝染病であるという「脚気細菌説」が信じられていました(注2)。




しかしそれとはちがう動きが海軍にありました。

1883 年、海軍の軍艦・龍驤で、乗組員の半数が脚気になり航行不能となる被害がでました。そこで海軍軍医・高木兼寛は、イギリス留学時代にまなんだ疫学の方法をつかって対策にのりだしました。

疫学の方法とは、病気の発生分布などをもとに有効な対策をみちびくやり方です。具体的にはコレラ対策で成果をあげていました。1850 年代のロンドンで伝染病・コレラが流行しました。そのとき、通りごとに患者の数を集計、データを地図上にプロットしてコレラの発生分布などをしらべて検討したところ、感染源は井戸であると特定することができました。コレラの原因はわからないものの、井戸を封鎖することにより、あらたな感染をくいとめることに成功しました。

海軍軍医・高木兼寛はこのような方法をつかって、衣服・生活空間・気温・食事など、脚気にかかる条件は何か? さぐっていきました。そして白米ばかりを食べ、おかずをあまり食べない兵士が脚気にかかりやすいということに気がつきました。「栄養のかたよりに原因があるのではないだろうか」。

これを検証するために高木は、軍艦をまるごとつかった実験に着手しました。軍艦・筑波の乗組員 333 人の食事を、白米中心の日本食からパンと肉中心の洋食にきりかえました。そして脚気被害をだした軍艦・龍驤とおなじ航路をたどり、脚気の発生率をくらべました。比較実験です。その結果、病者はひとりもでませんでした。食事の栄養にかたよりがなければ脚気にはならないことをたしかめたのです。

そして栄養のかたよりのない麦飯(大麦・裸麦をくわえた飯)を導入しました。1886年には、成果を英文で発表、脚気の原因物質などについてはわからないものの、栄養のバランスがくずれると脚気になるという「脚気栄養欠陥説」を主張しました。高木の論文は、海外の研究者には非常に高く評価されました。




これに対して陸軍の森林太郎は、「ローストビーフに飽くことを知らないイギリス流の偏屈学者」と高木兼寛を攻撃し、海軍がとなえる「栄養欠陥説」を否定、「白米は、西洋食におとらない。変える必要はない」と主張し、陸軍兵士に白米を支給しつづけました。




1894年、日清戦争が勃発。森林太郎は、「白米を1日6合たべていれば、副食(おかず)がなくても栄養に問題はない」と主張しました。その結果 陸軍では、戦闘による死者 450 人に対して、脚気による死者は 4000 人という事態が発生しました。一方、麦飯を食べていた海軍では脚気患者はわずか 34 人、いずれも軽症でした。

森林太郎はその後、台湾総督府陸軍局軍医部長に任命されて台湾に赴任しました。その台湾で脚気が大発生しました。兵士 23338 人のうち脚気患者は 21087 人、兵士の実に9割が脚気をわずらい、2000 人以上が死亡しました。

1904年、日露戦争が勃発。森林太郎は第二軍軍医部長として従軍しました。あいかわらず陸軍は白米を食べていました。その結果、陸軍全体で脚気患者 25 万人、うち2万 7468 人が死亡しました。一方、麦飯の海軍では脚気死亡者は3名でした。

この事態をうけ、世間は陸軍を非難、陸軍軍医のトップ・軍医総監は辞任においこまれました。そして替わってその地位についたのは、森林太郎でした。

陸軍の現場からは、「麦飯を支給してほし」という要望がだされました。しかし森は、「食べ物と脚気には因果関係はない、たまたま時期が重なっただけ」といい、断固としてみとめませんでした。




陸軍の惨状をみていた高木の海軍は、「脚気は、食べ物で防ぐことができる。天然痘も病理は不明だが、100 年も前にジェンナーによって予防法が確立している、脚気も同じことで、原因の究明と予防法を混同してはいけない」と主張しました(注3)。

これに対して森の陸軍は、「海軍は、非科学的だ。病気を予防し治療するためには病原や病気になる仕組みがわからなければいけない。我々が最も信用している帝国医科大学(東京帝国大学医学部)でもわからないのに海軍にわかるのか? 科学的にお答えいただきたい」と反論しました。

森林太郎は最晩年に医学書を発行、脚気は疫種つまり伝染病に分類しました。最後まで、脚気の細菌説にこだわりました。

しかし森の死後2年たってから、陸軍も麦飯を食べはじめました。そしてしばらくして、脚気の原因はビタミン B1 の欠乏であることがあきらかになりました。「栄養にかたよりがある」という高木兼寛らの仮説がただしかったのです。




高木兼寛がつかった疫学の方法は、たとえば富山県で発生した「イタイイタイ病」を解決するために開業医・萩野昇もつかいました。萩野昇は、現地調査により、患者の発生地域が神通川流域であるこに気がつき、そのときは原因物質はわからなかったものの、発生源は上流の神岡鉱業所であるとかんがえました。そしてその後、分析的研究がすすみ、原因物質はカドミウムであることがあきらかになりました。

高木兼寛らの方法は、調査・観察をしてデータをあつめ、「〜ではないだろうか」と仮説をたてるやり方です。これは仮説発想法、略して仮説法といってよいでしょう。仮説をたてたら、実験をして検証、そして解決策を立案します。この方法は、病原物質と病気になる仕組み(メカニズム)については当初はわからなかったものの、病気をへらすという問題解決には実際に役立ったのです。

仮説法の好例としては、アルフレッド=ウェゲナーが発想した「大陸移動説」もあります。大陸が移動する原動力とメカニズムは当時はわからなかったものの、地形・地層・岩石・化石・古気候帯・その他の分布などを検討し、「大陸が移動したのではないだろうか」と仮説をたてました。現在では、高精度な観測・解析技術が発達したことによりこの仮説が実証されています。

また川喜田二郎が創始した「KJ法」はこの仮説法を技術化したものです。あるいは仮説法は、推理小説(ミステリー)の方法とおなじでもあります。




これに対して森林太郎らは、科学的な機器をつかった分析的研究をあくまでもすすめるという立場でした。「高木らの方法は非科学的であり、病原物質と病気になる仕組みをあきらかにしなければならない」と批判しました。

しかしどんどん兵士が死んでいくなかで何とかしなければなりません。分析的研究をつづけていても死者はへりません。できるだけすみやかに人命をすくわなければなりません。問題を解決しなければなりません。原因物質や原因菌がわからなくても仮説はたてられます。対策はうてます。分析的研究に先行して、仮説法を実施したほうがよいということです。

このように仮説法は問題解決型であり、実学の立場にあります。病気予防・公害対策・環境保全・減災防災などにとりくむ場合、仮説法はとても有用です(注4)。
 



▼ 注2
森林太郎は、東京帝国大学医学部を卒業、その後ドイツに留学、当時最先端の西洋医学(ドイツ医学)の細菌学をまなんで帰国、陸軍軍医として活躍したスーパーエリートでした。いろいろな病気が細菌によってひきおこされるとかんがえていました。

▼ 注3
高木兼寛は、最先端の科学機器(顕微鏡など)を駆使した分析的研究とはことなる方法をもちいました。高木には、固定観念をすてた冷徹な観察と自由な発想がありました。しかし陸軍と森林太郎を前にして、表舞台からさっていくことになりました。

▼ 注4
大局から局所にはいっていく分析的方法とはことなり、仮説法では、多様なデータ(情報)を総合して仮説をたてます。これにより全体像や本質がしばしばあきらなになります。すると問題を解決するための急所がみつかります。そこをねらって分析的研究をおこなうと成果があがります。仮説法と分析はくみあわせて実践するとよいのです。

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