発想法 - 情報処理と問題解決 -

情報処理・学習・旅行・取材・立体視・環境保全・防災減災・問題解決などの方法をとりあげます

ネパールで活動するあるNGOは、ネパール西部山岳地帯のディリチョールに立派な学校校舎を建設しました。すると、そのあたりで暮らしている多くの生徒たちが、ディリチョールの学校に是非かよいたいということになり、周辺部に元々あったいくつもの古い学校はいちじるしく衰退してしまいました。古い学校は校舎が悪く、みすぼらしく感じられるようになったからです。

ディリチョールに鉄筋コンクリートの立派な校舎が建ったために、それまでの古い校舎は相対的に劣化してしまったのです。古い学校は何もしなくても、ほかが高級になると相対的に悪くなってしまいます。これは、たとえば、皆が平等にくらしていた村において、何らかのインパクト(援助)によってごく一部の人がお金持ちになると、その他の村人たちは、何もしなくても相対的に貧しくなってしまうこととよく似ています。

変化は、自他の関係の中で相対的におこってくるものです。貧富の差、格差はこうして生じてしまいます。貧富の差、格差とは相対的なものであって絶対的なものではありません。すべては相対的に決まるのです。

貧しいからといって経済的発展や経済効果をすぐにねらっていく国際援助専門家が実に多いですが、かえって貧富の差を拡大してしまっています。私が所属するNGOネットワークでは、ネパールだけではなくタイでも同様なことがおこっていることを確認しています。

ものごとの格差は相対的にきまることをあらかじめ理解しておくことが必要です。

「そうだったのか」とニュースをわかりやすくつたえるジャーナリスト、池上彰さんが子供にむかってインターネットの仕組みをおしえています(NHK, Eテレ)。

おしえている内容は基本中の基本です。池上さんはインターネットの専門家ではないですが、相手が子供だからおしえられるのだと誤解してはいけません。子供にもわかるように説明できるようになるためにはかなりの勉強と工夫が必要です。

一方で、子供にもわかるように説明できるようになることは、その分野の基本を習得する方法でもあります。おしえることによって基本の基本が自分にとってもしっかり身につきます。基本が身につくと応用がきくようになります。

このようにして、大人向けのニュース解説をおこなうときにも、専門家顔負けの実にわかりやすい解説ができるようになるのでしょう。

すぐれたサッカー選手は、1個のボールと周囲の選手の動きとを同時に見ることができ、ボールがどこへ飛んで行くかを予見できるそうです(NHKスポーツ解説)。つまりその選手は視野が非常にひろく、個と全の両者の変動を瞬時にとらえることができるということです。

たとえば、相手チームの選手Aにボールがきて、選手Aは選手Bにパスをしようとおもっています。選手Aのところにまだボールがあるのに、選手Bがけるボールが飛んでいく所がすぐれた選手にはわかります。Aではなく、そのあとのBがけるボールがどこへ飛んでいくかを、AとBとそれらの周辺にいる選手の動きから予見しているのです。予見のために、1個のボールの動きとともにフィールドの全体もが見えなければなりません。このような選手は視野が非常にひろく、中心視野とともに周辺視野をフル活用しているといえます。

視野をできるだけひろくすることは球技だけではなく速読やフィールドワークにも通じる重要なことです。

千早耿一郎著『おれはろくろのまわるまま - 評伝 川喜田半泥子 -』(日本経済新聞社、1988年6月)を読みました。

川喜田半泥子は、KJ法創始者の川喜田二郎の父であり、本書は、川喜田半泥子の本格的な伝記です。半泥子は、銀行家にして鬼才の陶芸家、複線的な人生を生涯つらぬき通しました。


半泥子は、自然の素材に対して忠実であることを美の特徴であるとした。半泥子の茶碗には自然の姿がある。半泥子は、ほとんど茶碗に絵付けをしない。茶碗そのものに自然をうつした。わざとらしい人工の跡を見せない。これは、荘子の「無為自然」の思想に通じる。無為自然とは、人為をすてて自然のままに生きることである。文明人は、本来渾然として一体をなしている自然を、認識のために分解してしまうが、自然のまま無差別の世界に生きることにこそ本来の道がある。

半泥子の子、川喜田二郎はKJ法を創始しました。その実践の究極は「本然」に到達することです。本然とは、もともとそうであること、自然のままであることです。わたしたちはいずれ、もともとの姿、本然にたちかえることになります。KJ法でとく「データをして語らしめる」とはそのための筋道であり、こうして、渾沌それ自体をして語らしめることができるのです。

データをして語らしめるKJ法の本質は、自然の素材をして語らしめる半泥子の方法に通じています。川喜田二郎は、著者・千早耿一郎に、「しらずしらず父親の影響を受けたかもしれませんね」とかたったそうです。


▼ 参考文献
千早耿一郎著『おれはろくろのまわるまま - 評伝 川喜田半泥子 -』日本経済新聞社、1988年 
おれはろくろのまわるまま―評伝・川喜田半泥子


「オーディオの音質を向上させるのは、写真ではなく絵画の技法です。原音にこだわっている間は、生演奏を超えることはできません」(注)

そもそも音楽とは音の記録ではなく芸術です。たとえばベートーヴェンの交響曲第5番「田園」は、小鳥のさえずりや小川の流れ、村人の様子などを音であらわしていますが、ベートーヴェンは原音を再生しようとしたわけではなく、田園の原風景からエッセンスをとりだし、それらを音にたくして私たちにつたえようとしたのです。したがってすぐれた演奏をきけば、なまの現実をみる以上にそのエッセンスがよくわかるのです。

このように、絵画が現場の記録写真ではないように、音楽も音の記録ではなく、作曲家がメッセージをつたえようとしているのですから、私たちは絵画をみるように音楽をきいて、作曲家からのメッセージをうけとり理解することが重要です。

このような観点からオーディオ装置をとらえなおすと、いかに忠実に原音を再生するかではなく、どれだけ作曲家のメッセージがつたわるかが大事であることになります。


注:逸品館メルマガ 2012-4-28

第201回SRS特別講習会「深層法(多重深層意識開拓法)」に参加しました。印象にのこったことは次の点です。

人生のほとんどすべては深層意識が決めています。深層意識とは探究するものではなくて、つくりあげていくものです。

東洋は目(視覚・図形)の世界を重視し、東洋人は「目の人」であるのに対し、西洋は耳(音・言語)の世界を重視、西洋人は「音の人」です。目は直観に通じ、耳は論理に通じます。東洋では、風水とか陰陽五行などを通して潜在意識の存在はすでに知られていましたが、西洋では潜在意識を、フロイトと彼の弟子のユングらがはじめて世に知らしめました。

感覚でとらえている環境は、実は、自分の外にではなく中(心の中)にあります。根っこにある潜在意識はすべてつながっています。環境を見れは潜在意識の状態がわかります。

「ビジョンをもって、そのときに、今やるべきことをひたすらおこなう」ことの重要性をまなびました。ビジョンをもつということがポイントです。こうして直観力をきたえます。直観にしたがうと表面意識と深層意識の連動共鳴がおこるということです。また、周囲の人々とのコミュニケーションは「たとえる」ことにより可能になります。何かをはなすとき「たとえば・・・」とつづけるのがよいです。
 
地上(表面)にまっすぐそだつと、 地下( 深層)に貫徹する力が生じ、たくましく成長できるのだとおもいます。その反対に地上でまがっていると、地下もまがってしまいます。バランスがとれ調和した心の状態が大切なのでしょう。

事務所での事務的な仕事は「雑用」などといわれ苦痛に感じる人がいるらしいですが、事務仕事も情報処理あるいはその訓練の場としてとらえると有意義なことになります。つまり、一見複雑にみえる雑多な作業を、「インプット→プロセシング→アウトプット」という情報処理の3場面にそって整理して実施するとよいです。

私は、あるNGO/NPOの事務スタッフに次のように指導しました。インプットは投入といいかえることもでき、たとえばプロジェクトのための資金調達がそれにあたります。資金調達により予算(お金)が入ってきます。そのほかにメールなども入ってきます。また様々な情報収集はいうまでもなくインプットです。次に、プロセシングとして重要な業務は経理(会計処理)です。そのほか企画立案などもあります。アウトプットとは外にむかって情報を発信することであり、広報活動やイベントの実施などがそれにあたります。また成果をだすことはすべてアウトプットです。アウトプットの本質は社会に役立つ社会的価値のあることを実施することです。

そして、よくできたアウトプットができれば、それはおのずとあらたなインプットにつながってきます。

ロンダ=バーンたちは「引き寄せ」の法則についてのべています(注)が、その説明の仕方は段階を踏まえてのそれとなっています。つまり、本の最初からの大部分は、周波数や波動といった現象をもちだして古典物理的な解説をしています。しかし、256ページの「宇宙のひとつの意識」からはそのようなことからは はなれ、意識の作用と場についてのべています。古典物理的な前者の解説は初心者むけの基本的な解説、意識に関する後者の解説は上級者むけの本質的な解説になっています。

上級者むけには「宇宙のひとつの意識」が解説されています。すべての可能性とポテンシャルは同時に存在するのであり、実際にはそれは、波がつたわってくるというような古典物理的な現象ではありません。

そもそもは意識(心)があるだけであり、時間も空間も見かけの現象にすぎません。見えること、聞こえること、感じることはすべて意識でとらえたこと、見かけの現象、色(しき)にすぎません。本当は意識があるだけです。個人も、人生も、ヒマラヤも、地球も、すべてが意識の中にあるのです。

一方で、意識の中のできごとであるからこそ、みずからの意識により人生をえがき創造し、世界をえがき創造することができるのです。

注:ロンダ=バーン著『ザ・シークレット』角川書店、2007.10.29。
ザ・シークレット

ワーグナーの楽劇『ニーベルングの指輪』における神々の世界は、人類が自我をもつ以前の世界(宇宙)をあらわしています。

人類は、自我をもつ以前は、宇宙(自然)の法則によって支配され、宇宙(自然)の中でただ生かされているだけの存在でしたが、神によって自我をあたえられてからは、その自我を拡大しながら、感情をそだて、英雄を生みだし、そして文明をきずきました。

しかし一方で、本来もっていた安らぎをうしない、矛盾と苦悩をかかえこむことになりました。

こうして人類の物語が生じてきました。

人類が、本来の安らぎの世界にもどるためには、自我から解き放たれなければなりません。自我から人類が解放されたとき、ふたたび、安らぎにみちた本来の世界が再生されます。しかしそれは人類の物語がおわることも意味します。

ワーグナーは、楽劇『ニーベルングの指輪』という物語を通して、法則と自我と安らぎについておしえてくれています。くりかえしくりかえしこの楽劇を視聴していると、このような奥深い世界からのメッセージをうけとめることができます。

参考文献:ポール=ハリントン著『ザ・シークレット TO TEEN』角川書店、2010.6.23。

METライブビューイング:ワーグナー作曲 <ニーベルングの指輪 第3夜>『神々の黄昏』を鑑賞しました(場所:新宿ピカデリー)。

指揮:ファビオ=ルイージ
演出:ロベール=ルパージュ
出演:デボラ=ヴォイト、ジェイ=ハンター・モリス、エリック=オーウェンズ、ヴァルトラウト=マイヤー
MET(The Metropolitan Opera) 上演日:2012年2月11日

第3夜では、神々の世界から人間界へと舞台をうつし、ギービヒ家をひきいるハーゲンと、無垢の英雄・ジークフリートの死闘がはじまります。

「指環」を、恋人のブリュンヒルデにあずけ、ジークフリートは人間界へと冒険に出て行きます。たどりついたのは、ライン河のほとりに建つグンター家の屋敷。アルベリヒの息子ハーゲンは、ブリュンヒルデが持つ指環を手に入れようと、ジークフリートに忘れ薬を飲ませて妹のグートルーネに心をうつさせ、ブリュンヒルデから指環をうばわせます。怒りにかられたブリュンヒルデは、不死身のジークフリートの急所をハーゲンにおしえてしまいます。英雄・ジークフリートはたおされ、「ジークフリートの葬送行進曲」がながれます。やがて世界は炎につつまれ、神々と英雄の物語は終わりをつげます。


神々の世界とは、法則がはたらいている世界のことであり、それは、自我をもった人間がうまれる以前の世界のことでもあります。この世界のことを、人間がくらす地上に対して天上の世界ともいいます。

はたらいている法則とは「引き寄せ」の法則であり、この根本的な法則があるがために、ひとたびひとつの「中心」が生じた場合、そこに、世界のすべてのパワーが引き寄せられてきます。そのパワーの中心こそがニーベルングの「指輪」であり、したがって、その「指輪」をはめたものは世界を支配することができ、すべての夢を実現することができるとおもってしまうのです。

一方、神々の長・ボータンは、ただ、法則によって生かされているのではなく、自らの意志によって自主的・主体的に行動できる「人間」をつくりだしたかったのです。その人間は、自らの意志によって前進し、自らの判断によってたたかい、自らの力によって敵をうちくだきます。このような人間、すなわち英雄を生みだしたかったのです。ここに、自我の確立、主体と環境との分離を見ることができます。

しかし、自我をもった人間は、自我を拡大していく存在にほかならず、それによって生みだされたあたらしい世界とは、愛と憎しみにみちあふれた感情の世界であり、平和と戦争とをくりかえす血なまぐさい世界であり、成功とズッコケのある滑稽な世界です。

そして、自我によってつくられた世界、自我によってとらえたもの、この世に実在すると人間(英雄)がおもっている光景は、実は幻にすぎません。幻であるからこそ、自らの意志を顕在化させ、物語をつくることができるのですが、他方で、それは簡単に滅び消え去ってもいきます。実現がある以上、滅亡もおのずとおとずれるのです。

こうして、愛と憎しみが交錯する複雑な世界はやがて炎につつまれ滅び去り、神々も人間もいない、ただ、法則のみが存在する安らぎの世界、本来の世界にもどっていきます。

ルパージュ演出の『ニーベルングの指輪』の最終場面は波があるだけです。この波と、ワーグナーの音楽の波動こそが、ただ、法則があるだけの世界にもどったことをおしえてくれています。

「宇宙のひとつの意識」(ロンダ=バーン)にあるように、ひとつの意識のひろがりのなかで私たちは生きています。その意識のなかで、自分自身がおもっていることを、実は見ているのです。

「宇宙のひとつの意識」とはその人の意識そのもの、心そのもであり、そこに「引き寄せ」の法則がはたらく場があります。

結局は、ひとつの意識があるだけなのですから、意識のバランスをとり、意識の平和をめざすことが重要です。世界の平和とは心の平和であると気がついたとき、とても気が楽になります。

ロンダ=バーン著『ザ・シークレット』の256ページには「宇宙のひとつの意識」についてのべられています。

ここでいう意識とはいいかえれば心の作用のことであり、宇宙も意識(心)でとらえられたもので、意識の場の中にあるのであって、意識がすべてをつくりだしているのだということを理解することができます。意識のなかにすべてがあり、意識がすべてをつくりだしている。したがって、宇宙は観測されてはじめて存在するということにもうなずけます。この意識とは、可能性をすでにもっており(可能性が潜在しており)、それが、顕在化し実現するのを待っています。

このようにかんがえてくると、世界(宇宙)の平和ということも、実は、心の平和のことであり、その可能性はすでに存在し、それが顕在化するのを待っているので、私たちは心の平和をもとめて生きていけばよいということになります。

ロンダ=バーン著『ザ・シークレット』(注)を読んでいると、世界の平和とは、実は心の平和のことであるということがわかります。

また、同著のなかの「宇宙のひとつの意識」をくりかえし読んでいると、意識はふかまり大きな発展がもたらされます。

結局、意識のなかにすべてがあり、意識があるだけなのですから、見かけの現象や幻にはとらわれず、意識を自覚しコントロールし発展させることにより平和な人生をあゆんでいくことができます。


注:ロンダ=バーン著『ザ・シークレット』角川書店、2007.10.29。 

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第199回SRS特別講習会「瞬考法」に参加しました。思考の始点は問題意識であり、思考の終点は目的意識です。これら両者を「矢印思考」でむすびます。この「矢印思考」ではあかるく明晰に矢印をえがくことが重要です。

映画『聯合艦隊司令長官 山本五十六 -太平洋戦争70年目の真実-』(監督:成島出、主演:役所広司、2011年公開)をみました。誰よりも戦争に反対しつづけた山本五十六の実像をえがいています。

ハーバード大学にかつて留学し、在アメリカ日本国大使館にも勤務した体験ももつ山本五十六は、世界の情勢を体験的によく知っていました。しかし、陸軍の圧力と大衆の熱狂により日本国は戦争の道をつきすすんでいってしまいました。

山本五十六は、「自分の目で見、耳で聞き、心でおさえる」ことが必要だとわかい人におしえます。

こうして事実を、自らの体験にむすびつけておさえ、さらに、それらを体系的に理解することができれば、正しい判断は自然に生みだされれます。他方、このことがわからずできないのに“ディスカッション”や“ディベート”をしても無意味です。一番大切なのは事実であり、事実を知ることです。そしてそれを世の中にひろめることです。そのために、事実をしてかたらしめる方法であるKJ法がすでにこの世にあるのです。

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